風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

2020年を迎えて

4ヶ月以上このブログを放置して気がつけば2020年になっていた。

晦日に軽いぎっくり腰をやってしまって、ほとんどリハビリの年末年始休みだったと思う。明日から仕事が始まるがいきなり東京出張も入っているし、なんだかんだで暇とは縁遠い秋から冬で、暇になったな、手持ち無沙汰だ、と思っていた春から夏と大違いの昨今だった。

僕の任期もあと1年半と確定し、その後は責任の重い仕事からは外れることになる。
本当に一日千秋の思いで待ち望んでいることだ。
任期を終えて暇になったらもっと楽しんで生きたい。
先にワクワクする楽しめることがある人生を送りたい。
それが今、思っていること。

楽観を持つことが難しい

欧州から帰ってきてもう2週間が経った。
日本は例年通り梅雨が明けて恐ろしいほどの暑さがやってきている。
36~38℃といった暑熱地獄は子供のころはなかったように思う。
どんな状況でもそれに慣れてしまうと普通になる、ということか。

世界ではアメリカと中国がいがみ合い、日本と韓国も意地を張り合い、
企業同士も競争して闘いあっている。大阪では政権を取った党が
公園を民間に渡して金儲けの手段にするのだ、それが社会の活性化
であり、大阪の地盤沈下を防ぐ見事な手段なのだ、と叫んでいる。
一方では欧州には40℃を超える熱波が押し寄せていて、北極海の氷
は溶け、大規模な災害は頻発している。

どう考えてもこの世界は劣化しつつある。
そしてその劣化を我々は食い止められずにいる。
人間はそこまで愚かではないはずだ、という心のどこかで我々は
ずっと楽観を持っていた。それはあのソ連アメリカが核兵器
持って対峙していた恐るべき冷戦時代ですら。
今や、その楽観を持てなくなってきていると思う。
各国指導者の恐るべき劣化、社会構造の恐るべき劣化を見るにつけ
希望や楽観を持つことが難しく思えてくる。

明日から欧州

あっという間に大阪に帰任して3か月が過ぎた。
仕事のほうはずいぶんと役割が変わった部分もあり、責任が軽くなったようでもあり、会社の中で徐々に隅に追いやられつっつある感もある。それを嫌がったり寂しがっ
たりするようなそんな思いは少ないけれども、次の世代へのバトンタッチと理解
はしているが、心の奥底には何か澱のようなものが沈殿していてヘドロになり
つつあるような、そんな感じもある。他人よりは薄いとはいえ自分の中の何か
共同体の中で存在を認められていたい、という思いがそれを生み出しているの
だろうか。そんなこともあって、ここのところ僕個人のもっぱらの関心は、会社
という組織体から離れてゆくこれからの人生をどう過ごすか、という点に絞られ
ている。

体調は去年、一昨年とは比べ物にならないくらい良い。ここ2年苦しんできた
自律神経の不調は今年の春から収まっている。つまり大阪に帰任したら収まった、
と言って良いのだから、実に寿ぐべきこと、と思う。ここ2年は青空をすっきり
した気分で眺めたことなどなかったのだから。

 明日からドイツ・ヨーロッパに出張に行く。
それほど厳しいスケジュールでもなく、割と楽な出張と言える。
残念ながら(ここ数年はほとんど常にそうであるが)同行者がいるため自由を
満喫はできないけれど。。。
それでも、一年ぶりに欧州の空気を吸って来よう。

 

大阪でもフェルメール展を見た

大阪に帰ってきてからの日々はなんとなく落ち着かない日々で、自分が根無し草になったようなそんな気分。6年間過ごした東京のオフィスと違う環境で違う社員たちに囲まれた生活、自分のものは入っているとはいえ、今までと違う自宅の部屋、微妙に波長がずれる日々の生活、、、。そんなこんなで疲れている感じは否めない。
そんな中、天王寺を通りかかったので、大阪市立美術館フェルメール展を見てきた。
東京でもこの展覧会は見ていたのだが、大阪だけに出ている作品もあったので改めて見に立ち寄ったのだ(時間がなかったので券を買ってフェルメールの絵6枚だけを見て帰った)。これまで未見で今回見れた絵は2つあった。「取り持ち女」と「恋文」である。「取り持ち女」は初来日なのだが、フェルメールとしては油が乗り切った、という感じにはいたらない絵、という印象。一方の「恋文」は構図といい色使いといい素晴らしいフェルメール作品と思った。今回改めて思ったのだが、フェルメールの色の使い方は独特だし素晴らしく趣味がいい。もっと眺めていたかったが時間がなく駆け足だったのが残念だった。

これで僕が見たフェルメールの絵は25点になった。

これからは大阪で。

3月29日、東京での最後の勤務を終え、壮行会をしてもらって土曜日に帰阪。
これで本当に東京での仕事も生活も終止符を打った。
強い、強い、終止感。終結感。
悲壮感や悲しさはないけれども若干の空虚感と若干の寂しさはある。
ひとつの舞台が、ひとつのストーリーが終わった、幕を閉じた、という感じ。
ある意味では華やかでバブリーな日々の終わり、という気もするが、本来の
自分の姿に戻ってゆくという感もある。

らっきょうの皮を剥く猿

結局のところ、上機嫌に日々を送ること以外に人生に大切なことはないのではないか?と
最近考えるようになった。人間は哲学と思想を突き詰めることで神の存在を否定し宗教を
破壊し、科学を突き詰めることで死後の世界も臨死体験も脳内の幻想と断じ、最近では
意識は単に進化の過程で生じた生存に優位性を持たせるための仕掛け(ヒストリー記憶)
であって自分の意志で決断する前に無意識は既に行動を決断しているという実験結果
を持って人間の自由意志まで否定しようとしている。
人間はますます裸の実存として世界の中でひとりぼっちにされてゆく。

よろしい。それらが全て正しいとしよう。
これらの全てが、立証は不可能であったったとしても最も蓋然性の高い仮説であること
を僕も認めるとしよう。
けれども。
これらの仮説は「人が日々を上機嫌に安定的な精神状態で生きる」ことにどれほど
資するのか?一人の人間のQOLを高めることに、どれほど資するのか?
恐らくはこれらの仮説を立てその実証を試みる学者たちや哲学者には「有効と思われる
仮説を立てたことによる喜び」なり「より真実に近づいたであろう喜び」を彼ら自身
には与えるだろう。
しかしながら、彼らの立てた説は、それを知ることになった人たちの「上機嫌な安定
した生」に何一つ資することはないのではないか?

19世紀以降、人間は自分で自分の皮を剥くようなことを繰り返し行ってきた。
メリメリと音を立てて皮を剥かれるその痛みに悲鳴をあげながら。
それはらっきょうの皮を必死で剥く猿と何もかわらないのではないか。
全部皮を剥ききってしまったら、残るものは何もない。
らっきょうは皮を剥くためのものではなく、食べてその美味しさを愛でるものだ。
人間は全く裸の実存として真実という世界に晒されて耐えてゆけるほど強くない。
たとえ自由意志が幻想としても、人々はその幻想を元に社会を作り営んでいるではないか?

もう、こういった世界から僕は離れることにしよう。
そして「日々を上機嫌に生きるためにどう考るか」を大切にしようと思う。

アラン「幸福論」より

以下引用:

                                  • -

ほほ笑むことや肩をすくめることは 、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。

病気にかかった人を見たまえ。病気になることによって、自分は病気ではないかという
恐怖から、いかにたちどころにいやされてしまうことか。われわれの敵はいつも想像上
のものなのだ。

憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんど
みんな、読みすぎなのだ 。

人間の眼ははるかな水平線をながめる時、やすらぎを得るように出来ている。

強靭な精神をもつ人間は、自分が今どこにいるのか、何が起きてしまったのか、まさ
に何が取り返しのつかないことなのかを自分で考えて、そこから未来に向かって出発
するような人だと、ぼくは考える 。

人にほんとうに与えうるのは、自分のもっている希望だけなのだ。自然を当てにし 、
未来を明るく考え、生命は必ず勝利すると信じなければならない。

われわれはいつも自分の苦痛に対しては耐えうるだけの力がそなわっていることだ。
また、ぜひそうでなければならぬ。

よく聴きたまえ。死者たちは生きようと欲しているのだ。君のなかで生きようと
欲しているのだ。君の生を通して、自分の欲したものがゆたかに展開されること
を望んでいるのである。

                                  • -

脳科学的には「意志」などというものはほぼないに等しい、とされているようだが、
人間が幸福に生きるためには「意志」という「幻想」なり「仮説」を取り入れて
生きるしかない、というのが今の僕の結論である。

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)