風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

らっきょうの皮を剥く猿

結局のところ、上機嫌に日々を送ること以外に人生に大切なことはないのではないか?と
最近考えるようになった。人間は哲学と思想を突き詰めることで神の存在を否定し宗教を
破壊し、科学を突き詰めることで死後の世界も臨死体験も脳内の幻想と断じ、最近では
意識は単に進化の過程で生じた生存に優位性を持たせるための仕掛け(ヒストリー記憶)
であって自分の意志で決断する前に無意識は既に行動を決断しているという実験結果
を持って人間の自由意志まで否定しようとしている。
人間はますます裸の実存として世界の中でひとりぼっちにされてゆく。

よろしい。それらが全て正しいとしよう。
これらの全てが、立証は不可能であったったとしても最も蓋然性の高い仮説であること
を僕も認めるとしよう。
けれども。
これらの仮説は「人が日々を上機嫌に安定的な精神状態で生きる」ことにどれほど
資するのか?一人の人間のQOLを高めることに、どれほど資するのか?
恐らくはこれらの仮説を立てその実証を試みる学者たちや哲学者には「有効と思われる
仮説を立てたことによる喜び」なり「より真実に近づいたであろう喜び」を彼ら自身
には与えるだろう。
しかしながら、彼らの立てた説は、それを知ることになった人たちの「上機嫌な安定
した生」に何一つ資することはないのではないか?

19世紀以降、人間は自分で自分の皮を剥くようなことを繰り返し行ってきた。
メリメリと音を立てて皮を剥かれるその痛みに悲鳴をあげながら。
それはらっきょうの皮を必死で剥く猿と何もかわらないのではないか。
全部皮を剥ききってしまったら、残るものは何もない。
らっきょうは皮を剥くためのものではなく、食べてその美味しさを愛でるものだ。
人間は全く裸の実存として真実という世界に晒されて耐えてゆけるほど強くない。
たとえ自由意志が幻想としても、人々はその幻想を元に社会を作り営んでいるではないか?

もう、こういった世界から僕は離れることにしよう。
そして「日々を上機嫌に生きるためにどう考るか」を大切にしようと思う。