風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「まだそんなに老けてはいない」を見て

僕はあまりTVドラマは見ないのだけれど、山田太一のドラマには昔から興味が
ある。彼の考え方や社会や人間への視線に惹かれるものがあるからだ。
そう、「とても惹かれる」と言っていいと思う。
昨夜、その山田太一脚本ということでテレビ朝日で放映された単発ドラマ
「まだそんなに老けてはいない」を見た。
(番組のHPはこちら

この物語は、いわゆる「団塊の世代」が遭遇するほのかな恋物語である。
もっとも主役の浩司(消防官中村雅俊)も雅江(店員:余貴美子)も結婚して
いるので、恋に発展したとすると「不倫」になってしまうわけであるのだが。

ドラマの中の真面目で不器用な浩司は偶然(実は偶然ではないのだが)がもたら
した雅江との出会いに心が揺れ、傾斜してゆく。それは雅江のほうもまた同じ
なのだ。この真面目な中年男女二人の不器用さの描写がいかにも山田太一らしい。

知り合った二人は、喫茶店で会って話すようになる。
それが数回を数えたとき、浩司のほうが「このままでは嫌だという気持ちになって
きました」と言い出してしまう。それに対して、雅江のほうがこのように言って
制止する(録画していないので正確なセリフではありません。あしからず ^^;)

「周囲を不幸にしないように抑制できることが、私たちのせめてもの『年の功』
 じゃないですか」

そして、二人の間には何も起きず、この短い物語は静かに幕を下ろす。

山田太一のドラマに一時期話題になった「丘の上の向日葵」という作品が
あった。こちらでは、必死で抑制しようと頑張ってきた男女が最後に抑制できず
に一気に最後まで突っ走ってしまう結末になっていた。
これについて山田がエッセイ「抑制と情事」の中でこのように述べている。
(とても面白いので長文ですが引用します)

【引用始まり】 ---
一概にアメリカ人のほうがいいとはいえないかもしれないが、人間関係が
セックスの対象としての異性という意識に牽制されてひろがって行かない
という不自由は日本人の方が高いだろうと思う。

『丘の上の向日葵』は、そのあたりの不自由から、少しのがれようとした
男女の物語である。書きはじめる時の計画では、性的な異性意識を登場
人物たちが意志的に克服して、おだやかな友人関係をつくれるはずであった。
「人間はそんなに簡単にはいかない」とか「そんな男女関係は不自然である」
というような現実観にさからって、無理をして二つの家族が、内心ヒヤヒヤ
しながら(つまりエロティシズムを保ちながら)緊張の中で性的関係ぬきの
つき合いを維持しているというのが、終章の光景のはずであった。
 登場人物もこの主題に有利なように、「自然体で生きよう」などという
無理をしない人物ではなく、かなり強引に意志的に「普通ではないこと」
をし遂げてしまっている人物を設定した。

それがどういうことになったかはお読みいただいた方には明らかだし、
お読みいただいていない方に作者が贅言を加えていいことはなにもない
のだが(中略)はじめに意図したした結末を諦めなければならなかった。
具体的には抑制し合うはずの人物たちが、情事に走ってしまったのである。
【引用終わり】 ---

「丘の上の向日葵」を書いた時、山田太一は55才、ほぼ今の団塊世代
年齢だったのだが、このように「本能が理性を裏切る」結末を描いた。
そして今、72才の山田太一は「理性による本能の超克」を描いたのだ。

これは年齢を重ねた山田太一の内的変化なのだろうか?
主人公たちの年齢なりの社会的成熟を描いたのだろうか?
それとも「あの時代」と「この時代」では社会に発するべきメッセージが
変わったということだろうか?
興味は尽きないところである。