風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「巧みに生きる」と「善く生きる」

平野啓一郎氏のブログで面白いテーマが論じられていた。
以下引用。

【引用始まり】 ---
ウェブ人間論』の対談をしていた時にも考えていたことですが、
人間は、自分の属している社会のシステムと否応なくつきあいながら
どうにかこうにか生きているわけですが、そこで、「巧みに、うまく」
生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないかと
いう気がします。
それは直接には、僕自身を振り返ってみてのことですね。

僕は、これまでの人生で、結構「上手に」生きてきたなという感じが
しています。経歴からしてもそうですし、対人関係についても、総じて
それほどのトラブルもなく過ごしてきました。別に、そのために権謀術数
を巡らせて、人を欺してきたわけでもなんでもないんですけど、そうだと
しても、というか、多分そうだからこそ、何かの拍子に、自分は巧みには
生きている、けれども、善く生きているんだろうかという疑問に深刻に
見舞われる瞬間が、どうしてもあります。
この感じは何なんだろうなとよく考えます。
【引用終わり】 ---

わかるなぁ、とてもわかる、と思う。
僕自身の人生を振り返っても(外から見たらそれほどではないだろうが)
僕なりに「巧みに」生きてきた、という思いは強い。
平野氏は「権謀術数を巡らせて」きたわけではない、と言うけれども、僕の
場合もそれはないかもしれないが、何かを見て見ぬふりをしたり、やり過ご
したり、人の誤解をうまく利用したりしたことはある。

そう、ここ何年か、心の底からマグマが吹き上げるように強く思い始めたこと。
それはまさに『上手に巧みに生きるより、善く生きたい』という思いだった。
何か根源的なものが自分の奥深くで一気に爆発したような感じだった。
最近は信頼できる人たちには少しずつ公言もしている。
「これからは、善い、と自分自身で認められることしかしない。その結果として
 『巧く』世の中を渡れなくてそれ相応の目にあっても仕方ない、と腹をくくっ
 ている」と。

ただ、それを貫く上で極めて重要なポイントを平野氏は述べている。
(さすがに鋭い知性の持ち主だと改めて感じ入った)

【引用始まり】 ---
今の世の中は、こういう世の中だと認識し、完結した形でそれを語る。
そうすると、主体として外からそれに関わる人間は、自分の責任を
「任意に」放棄できる場所を意識的に、あるいは無意識的に作って
しまうわけです。これは、「歴史に翻弄される」というような表現
でも同じことですね。

しかし、その認識、あるいは語りの結び目に自分自身を置けば、
それが決して完結しきれないことが分かります。「責任」の問題が
始まるのは、そのギリギリの地点じゃないかと思うのですが、
まだよく考えがまとまってません。が、「巧みに生きる」ことと、
「よく生きる」こととの対立の要がそこにあることは、何となく
分かります。
【引用終わり】 ---

つまり「こんな腐った世の中だから、自分は自分が「善い」と思うことしか
しない」というのは、主体の社会に対する責任放棄ではないですか?と
いうことなのだ。
自分だけは「善」という外部の立ち位置にいて「社会」を客観的に見る、語る、
ことは「善いこと」なのですか?という問いかけでもある。

平野氏が言う通り、主体もその社会を構成している一員である以上、そのような
「責任逃れ」が許されるわけもない。
あらゆる共同体がそうであるように、主体には「構成員としての責任」がある。
もし、自らが共同体の「正」あるいは「善」とされる事柄とは違う方向性で自らが
判断し自らの格率で動くとするならば、その主体は、本来の共同体の求めるもの
とは違った形の責任を引き受けることになると僕は思うのだ。
「善く生きる」には共同体の中で共同体の論理だけに沿って「巧く」生きる以上に、
個としての覚悟と共同体に対する責任とcontributionへの自覚が必要だと、僕は
思っている。

自分のこんな考えは奥さんにも話している。
彼女も理解し、納得してくれている。
自分は本当にいい奥さんを貰ったと思う。