風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「罪のゆるし」について〜三浦綾子「続・氷点」を読んで(終)

「氷点」は人間の原罪について深く掘り下げた内容だったが、「続・氷点」は
「罪のゆるし」がテーマになっている。
主人公・陽子に与えられた性格は「氷点」に比べてぐっと複雑になっている。
「氷点」では「原罪」の意味を際だたせるために完全無欠に近い性格として
描かれていた陽子だが、「続・氷点」ではより人間らしい部分を見せる。
そのひとつが生みの母、三井恵子への憎しみだ。
陽子が生みの母をゆるせないのは、夫を裏切って不義の子として自分を生んだ
というその事実についてだった。自分の生は裏切りの結果だったということ、
そして祝福されずこの世に生を受けたであろうという事実が陽子を苦しめる。
そのために、自分を絞め殺そうとしたり自殺に追い込んだ義理の母夏枝は許せて
も、どうしても実の母である恵子は許せなかったのだ。

それが物語の最後で「本当のゆるし」に目覚めるシーンがある。
流氷を眺めに行った陽子の目前で真っ赤な光が流氷に射し、燃え上がったかの
ように見えた一瞬に、その目覚めはやってくる。

【引用始まり】 ---
右手の焔が次第にうすらいで行く。が、左手の火焔は灰色の氷原の中に、
なお燃えつづけている。
 先程まで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗も
なく信じられた。このされざれとした流氷の原が、血の滴りのように染まり、
野火のように燃えるのを見た時、陽子の内部にも、突如、燃える流氷に呼応
するような変化が起こったのだ。
 この無限の天地の実在を、偶然に帰することは、陽子には到底できなかった。
人間を超えた大いなる者の意志を感ぜずにはいられなかった。
 (何と人間は小さな存在であろう)
あざやかな焔の色を見つめながら、陽子は、今こそ人間の罪を真にゆるし得る
神のあることを思った。神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないもの
であると順子から聞いていたことが、いまは素直に信じられた。
この非情な自分をゆるし、だまって受けいれてくれる方がいる。
なぜ、そのことがいままで信じられなかったのか、陽子はふしぎだった。
【引用終わり】 ---

このシーンこそ間違いなく「続・氷点」のクライマックスだ。
このシーンで描かれているのは、「飛躍」であり「啓示」である。
それまで神の実在を信じられなかった陽子は、流氷が燃える光景を目にすること
で突如として信じられるようになるのだ。恐らく多くの読者にとってこの啓示は
唐突であり、かつ、この解決はどことなく納得しがたい部分を感じたのでは?
と思う(敢えて言うなら多くの視聴者に理解されないであろうことを見越して
TVドラマではこの部分を曖昧にしていたのだろう)。
そして、僕にとっても当初はそうであったことを正直に告白しておきたい。

しかし、と僕は思う。
未だ信仰を持たない僕ではあるけれども、恐らくこれこそが答なのだろう、と
直感する。「本当のゆるし」は究極的には論理の問題でもなければ倫理の
問題でもない。それらを超越した存在と人間との「かかわり」を考えてはじめて
解決すること、と思うのだ。
これは「罪のゆるし」だけではなく、全ての根っこを考えてゆくと必ずそこに
突き当たる普遍的命題なのだと思う。

真面目な人間ほど、おのれの罪を自覚し徹底的に考えに考える。
そしていくら考えに考え尽くしても、そこには「本当のゆるし」はあり得ない。
「罪のある人間」なんだから「ゆるし」なんてないのが当然だ、としよう。
では『全ての人間に罪(原罪)がある』としたら?
人間は誰も「本当のゆるし」を得られず、無間地獄をさまようだけなのか?
そして、それが当然の報いなのだろうか?

僕は何もすっきりした答を性急に求めているわけではない。
しかし、率直に言って人間は宙ぶらりんであり続けるには弱すぎる存在である、
とも思う。一つの杖、それも偏りや独善性が歴史のフィルターによって洗い
流され、十分に錬磨された何者かを自らの中に受けいれることができれば、
それは生きることにおいて、大きなよすがになろう。
こんなことを書くと「宗教を功利性で考えるとは」とのご批判もあろうかと思う。
しかし僕はそれは「功利性」からではなく、ごく自然な内発的な生きる欲求に
根ざした思考の行き着く所であって、ここでは敢えて分析的に述べただけである、
とお答えしたい。

僕自身のことを言うと、永遠性を持つ超越者の存在を、いずれ自分が心から
受けいれる時(いや、受け入れられる時、というべきであろう)が来るだろう、と
予感はしている。それがどういう形のものなのか、どういう名前を持つ存在なのか
は未だわからない。しかし、そういう存在抜きの宇宙観、世界観、人間観には
大きな欠落と貧しさがあり、ある種の救われなさを潜ませることになるのでは
ないか。

だからといって『形だけ』では全く意味がない。
今の世界を見てみればよくわかる。
神を信じている敬虔であるはずの人達が、信仰を持たない人達とまったく同じよう
に、相手を許せず殺し合い、憎み合っているではないか。
形だけの信仰がいかに虚しいか、この事実が如実に示している。
『信じる=信じられる』は周りに強制されたり、自分が無理矢理そうしようと
思ってそうするものではなく、陽子が受けた啓示のように自分にごく自然に
降りてくるものであるはずだ。

陽子は真剣に悩みに悩んでいたからこそ、啓示の時を迎えることが出来たのだろう。
僕には僕なりの苦悩はもちろんあるけれども、いつか啓示の日はくるのだろうか?
恐らく、その日は来る。
僕は強くそう予感している。

三浦綾子「氷点」を読んで(1)
一生を終えて残るもの 〜「氷点」を読んで(2)