風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

宗教者と無神論者の間

何度か書いている通り、僕は特定の宗教を信じている者ではないのだけれども
「神様」に登場いただくことがある。
それは、決まってどうしようもなく不安なとき、自分にとって苦しい状況が降って
きたときなどで、換言すれば「自分の力を尽くしても状況を変えられるかどうか
わからない時」だ。
そういう時いつも自分が
「神様が『まだお前は苦労が足らない』と思って試練を与えているのだ」
とか
「『この辛さを受け止めて乗り越えてみなさい』という天の言葉なのだ」
とか、ごく自然に考えていることに気づいた。

そのように考えるのは僕にとってごく自然なことで、何の無理もなく特別なことでも
ない。そして「そう考えることで力が湧いてくるから」といった功利的な理由でそう
思おうとして思っている、というわけでもないのだ。(確かに苦しさは受け止めやす
くはなるけれども)
こんな風に考えることは特殊なことなのだろうか?

昔、僕たちが小さかったころはまだ「お天道様が見ている」という言葉を老人達
が使っていて、「だから、誰も見ていなくっても悪いことをしちゃならん」と
よく言われたものだった。
この老人達とも共通しているけれども、僕のように、特定の宗教を信じていなく
ても何らかの「神」とか「天」とかそういった仮想的な存在を自分なりに持って
生活にごく自然に関わらせることについて、心理学的、社会学的、宗教学的には
どういう位置づけがなされているのだろうか?

自分のその思いを自分なりに再検討すると、単なる「私的幻想」とか「信憑」と
いうレベルではなく、ウィトゲンシュタインが言うところの「超越確実性言明
(自我において無根拠に信じられている概念)」と呼ばれるものに相当するのでは
ないかと思える。そしてそこでの重点は「神様が」とか「天が」というような主語
の側ではなく「試練は乗り越えるために、私に○○から与えられているものである」
という言明の内容の側にあることに気づいた
つまり僕が信じているのは「神様」でもなく「天」でもなく『試練や苦しみはは
私が受け止め乗り越えるために「与えられる」ものである』
という概念なのだ。

こういうことを「何かを信じている」というのだろうか?
こういうことを信じている僕は「無宗教」と言えるのだろうか?
「私は宗教を信じています」と「私は無神論者です」の間には広大なグレーの領域
が横たわっているような気がしてならない。