風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

僕が評論家を嫌いなわけ

以前から評論家は嫌いだったけれども(ついで言えば評論家的な人も ^^;)、最近
ますます嫌いになってきた。
例えばサッカーで言えばセルジオ越後なんて最たるものである。
ワイドショーのコメンテーターなど論外である。

評論家にしてもワイドショーのコメンテーターにしても、ほとんどの場合、自らは
その制度の中に組み込まれていない立場で「外部的正義」として意見を申し述べる。
例えば、今の日本の若者の風紀について慨嘆するコメンテーター(あるいは評論家)
は「教育が問題だ」とか「家庭のしつけがなっていない」とか「現代の社会風潮が」
とか言うけれども、そうコメントする自分たちの立ち位置は常に「教育現場」から
も「家庭」からも「社会風潮」からも離れた外部の立ち位置のような物言いである。
これはちょっとひどいのではないか、と思うのだ。
何も教育現場のリアルな状況やら、個々の家庭の詳細やらについて隅から隅まで
理解した上で物を言え、と言っているのではない。
そんなことを言い出したら、誰も何も言えなくなる。

そうではなくて、物を言うときに「自分をその問題から棚上げするな」ということだ。
評論家の多くには「自分もまた社会の一員としてこの問題についての責任の一旦を
負っている」という自覚がなさ過ぎる。
「だって教育業界とは何も関係ないし、つき合いもない」
「そんなことを言われてもウチのしつけはちゃんとしている(本当か? ^^;)」
「自分たちは現在の社会風潮とは違う立ち位置で生きている。他人が悪い」
などと言うのなら「だったら公的な場でものを言うな、黙ってろ!」と言いたい。
「当事者意識がない意見で役に立ったもの」を僕はこれまで見たことがない。

一方で、このような評論家達の無邪気な「自己の棚上げ」は現象として非常に面白い。
何故ならば、評論家達は、実のところ己の無力さを心の底で意識しながら物を言って
いると思われるからだ(人は何かに本気で関わろうとするとき、決して自己を棚上げ
したりはしない)。彼らはどんなに強気で知ったかぶりの物言いをしていようとも、
実のところ、外界に対する己の無力さを痛感しているのである。
ラカン精神分析論によれば、人は自分の無力さを自分の外にある「自分以上に強大
な存在」からの妨害によるものとして説明しようとする。
ここで言えば「問題が解決に至らないのは自分が無力であるからではなく、自分の
外にある「教育」や「家庭のしつけ」や「社会風潮」のせいだ」という理屈になる。
こういう思考・物言いは多くの場合「未成熟な人間」によく見られるものである。
ラカン精神分析論については内田先生のアーカイブなどに詳しいです)

さて、彼らのこのような物言いと似たものをどこかで聞いたことがないだろうか?
言葉を入れ替えてみるとこのようになる。
「問題が解決に至らないのは自分が無力であるからではなく、自分の外にある
 ブルジョアたちのせいだ」
「問題が解決に至らないのは自分が無力であるからではなく、自分の外にある
 ユダヤ人たちのせいだ」
「問題が解決に至らないのは自分が無力であるからではなく、自分の外にある
 ”悪の枢軸”のせいだ」

評論家の皆様。
あなた方が「問題」を取り扱っている態度は、基本的にマルクス主義者、ナチス
今のアメリカ政府と同じですよ。
それでもいいんでしょうか?