風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

公ホリック

「おおやけホリック」と読む。
僕の造語だ。
男の多くは、この「公ホリック(=公中毒)」に罹っている。
反対の女性の多くは「私ホリック(とりわけ恋愛ホリック)」に罹っている。
とはいうものの、どちらのホリックのどちらが具合が悪い、というものでもない。
男女にはそういう傾向がある、というだけのことだ。
結局、人間は何かに対するオブセッションから離れられないものなのである。
その対象が、たまたま「公」なのか「私」なのか、という違いだけだ。


僕もまた「公ホリック」なのかもしれない。
「公」(たいした「公」じゃない。ごく小さな共同体にすぎない会社の仕事)を
「私」の領域に優先し、かつ、そこに払っている自己犠牲に何らかの「快感」
を感じている倒錯者だ。
昔はこんなじゃなかった、と自分でも思う(哀しい)。
こんな男どもは多くの女性から見ると「馬鹿」に見えて当然である。
だから、命を賭けて戦場に赴く男たちに女性は「男は勝手よ、後に残される者の
ことなんか考えてもみない」と逆ギレする。


閑話休題
思えば、哲学と思想は「公」と「私」、言い換えれば世界と実存を統合できる
「統一理論」を生み出そうと苦心してきた。
残念ながら、未だそのような理論は存在しない。
以下、哲学的「公」と「私」について、僕の思考の備忘のために記す。


加藤周一の「羊の歌・余聞」にこのような文章がある。

サルトルの)その「方法の問題」というのは、歴史、社会、人間の現実を
理解するためには二つの原則が必要で、一つはヘーゲルによって象徴される
ような全体を大きく見た客観的な枠組。それと、一人ひとりの個人は歴史の
段階であり社会の部分であるというのではなくて、それ自身が自己目的で
一つの完結した世界をつくっているという考え。そこに深みがあり高さが
あるという、しかし社会的、歴史的な広がりはない。
それはキェルケゴールにもっとも鋭く代表されている実存主義です。
ですからヘーゲル的歴史哲学の普遍性と、キェルケゴール実存主義の深さ
との特殊性、その交わるところに現実があるということを「方法の問題」は
言っているわけです。


その二つの軸に沿って、いわばその交叉点に人間的現実を見るという態度が、
他の哲学者に比べて、20世紀の哲学の中でも彼がもっともはっきりと、全力を
あげて研究した中心問題です。それはまた20世紀の社会の中心的問題でも
ありました。それはヘーゲル的枠組−−それはあとでマルクスになるわけ
だけれども−−、それと実存主義的な個人の経験との両方が交わるところに
人間が位置する、ということですが、その二つの見方による人間理解の関係
を体系的に解決し、体系的に叙述ということには彼は成功しなかったと思います。
しかし他の誰も成功しなかった。

また先日亡くなった吉本隆明朝日新聞の記事でこのように語っている。
http://book.asahi.com/reviews/column/2011071700354.html

レーニンスターリンの対決で結末がついた問題もありました。切実な私事
と公、どちらを選ぶべきか、という問題です。


レーニンは、ロシアに本当の意味でマルクス主義の社会が成立するなら、
その時は共産党は解散しようと『国家と革命』の中で言っています。
共産主義の相互扶助、それが成就したら党を解散しようというのがレーニン
の考えでした。そして年をとったレーニンが病に伏し、妻が看病しますが、
スターリンレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにして
いると批判します。
そこから二人の対決が始まります。


家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまった
とき、どっちを選択することが正しいのか。東洋的、スターリンマルクス
主義者であれば公を選ぶのが正しいというでしょう。
ところがマルクスは、そうではないことを示しています。


マルクスは、唯物論でなんでも白黒つけちまえという論者たちとは異なり、
肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の
利益のよさといったことと別のものだということを「芸術論」で言って
います。
この「私」をとるのがマルクス思想の本流であり、それは比較や善悪の
問題でもなく人間の問題なんだ、というのがレーニンの立場です。
真理に近いのはどっちだ、ぎりぎりの時にどっちを選ぶんだとなれば、
レーニンの立場を選ばざるを得ないでしょう。


日本でこれと似た問題提起をした人物といえば、親鸞がいます。
弟子から「死んだら極楽浄土に行くそうですが、私は少しも極楽浄土に
行きたいと思えないのです」と打ち明けられ、親鸞は「現実社会という
ものは煩悩のふるさとだから、ふるさとを離れがたいのと同じように
人間は煩悩から離れられないものなのだ」と答え、オレもおまえと
同じだと伝えます。


しかし親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。
「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分の
なすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて
帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して
生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。


この考え方にはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは
違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける。
しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。(談)