風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

最適化の限界を思う

科学において、例えば複雑系科学でも量子力学でも、粒子のアンサンブル(集合)
全体の挙動については確率論的決定論を語るしかない、という面がある。
確率論的決定論においては、アンサンブルの平均を取ることによって個々の粒子
の挙動、事象の特異性は埋もれてしまう。例えて言うと、液体粒子のブラウン
運動の軌跡であったり、気体分子個々の平均からズレた挙動はここでは問題に
されないということだ。
なぜそうなっているか、というと全ての粒子の挙動を計算することは物理的に
不可能(計算量の問題と複雑系としての問題)ということがあるけれども、
それ以上に「大きな系について考えるときには、個別粒子の挙動に特異性があって
もそれには意味を認めない」という暗黙の了解を科学自身が内包しているからだ。
「それよりも、系全体(気体全体であったり、液体全体であったり)の挙動がトレ
ースでき、予言できることが優先だし重要」ということである。

この科学の手法が内包している考え方は、我々の社会にも大きな影響を与えている。
我々の住む社会を考えてみる。
個人が平均化されるような、そういうアンサンブル平均を取り扱う(あるいは取り
扱わざる得ない)こととしては、例えば企業マネジメントであったり、国家運営と
いったことが当てはまる。
ここでは我々は「個別の粒子」として扱われるわけだ。

トップが自らのエゴイスティックな欲望ゆえその集団を好き勝手にする、といった
ケースは別として、現代の普通の人間集団・組織の運営においては、科学同様に個々
の人間の切実な生に寄り添うことを諦め、アンサンブル平均としての集団にとっての
「最適値」を見つけることが一般にソリューションになる。
その時には、個別の切実な関係性や思いは、副次的な扱い、あるいは最適化の必然性
・緊急性によっては無視されることになり、その過程でもみ消されてしまう。
ちょうど戦争の大きな作戦に投入される何十万の兵隊の集団の最適化された行動が
勝敗を決定するが、兵士ひとりひとりにとっては全体の勝敗とは無縁に個にとって
もっとも切実な「生と死」が直接関わってくるように。

もちろんこのアンサンブル平均にとっての最適化の過程でも、個別の人間(個別では
ない。ほとんどの場合ある分類分けされた人間集団)に対する心理的作用は取り上げ
られることはある。しかしそれはあくまで「最適化」をより効率的に行うための手段
としてたまたま取り上げられるわけで、個々の切実な生に寄り添っている、寄り添おう
とするという意図はない。

このように「最適化」はもっともらしく語られるが、決して個々の人間にとっての
「普遍的正義」ではない。
誰のために、何を最適化しているか、ということを常に考える必要がある。
戦争では「国家が勝利する」ということが国家の指導者層にとっての最適化である。
企業では「利益をより多く上げる」ことが株主にとっての最適化だ。
「最適化しなかったら皆が共倒れになる、他にいい方法があるのか?」という文言が
「個別の生の切実さ」を言い立てる人間には常にぶつけられる。
そして多くの場合、彼らは言葉に窮して黙り込んでしまう。
相手のほうが論理的強度を持っているように錯覚するからだ。
最近、そういうシーンを見る機会がだんだん増えているようにも思う。

多くの場合、「彼らの最適化手法」は、個別の生を「○○のためだからやむを得
ない」「全体のためには犠牲はつきものだ」という安易な言い訳で切り捨てている。
「全体のことを考え、泣いて馬謖を斬る」というような物言いをしながら、だ。
(驚くべき事にそこに「ロマン」を感じる人間すらいる。 無神経、というか根本的
 な『馬鹿』である)
1970年代、カンボジアでは総人口の1/3の国民が虐殺された。
ポル・ポト政権ももちろんそういった「社会の最適化」をするための「論理的
理由」を持っていたのだ。カンボジア同様、日本の政府だって、何かをする時には
もっともらしい論理を振り回す。
それは何一つ変わらない。

「その最適化手法は嫌だから、一から違う手を考えろ。考えるのがあなた方の仕事だ」
「あなた方の最適化手法と私たちの個別の生の切実さは相容れない。考え直せ」
そういう言葉を、我々はもっと口にしてもいいはずだ。

我々はもっともっと感情的になってもいいのではないか。
我々は粒子ではない。
個別の切実な生を背負った人間なのだ。
憲法改正の問題についても、僕はそう思っている。