風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

何が農水相に死を選ばせたか

農林水産大臣が自殺した。
大臣としての責任云々、のことは取りあえずここでは置く。
ここでは「何が彼に死を選ばせたのか」について書きたい。

彼に死を選ばせたのは「疑惑」でもなければ「周囲のプレッシャー」でもない。
彼は、彼自身の心に殺されたのだ。
もっと言えば、彼自身が持ったであろう(持ったかもしれない)「これ以上生きて
いる意味がない」「死んでお詫びをするしかない」という思いによって、だ。
そういった思いが起きたのは「疑惑」なり「周囲のプレッシャー」なりだから、
結局、彼は彼自身が直面した「事実」によって死を選んだ、という意見もあるだろう。
しかし、僕はそうは思わない。

一般に、不快になったり腹が立ったり悲しくなったり、そういった感情が起こるのは
直面している現実や事実がそうさせるのだ、と考えがちだ。
しかしそれはいささか短絡的である。
「事実」が直接的に「感情」を引き起こしているのではない。
実際の認知の過程で起こるのは、

【引用始まり】 ---
   「事実」→「自分の意識での解釈(心の中の文章記述)」→「感情」
【引用終わり】 ---

なのだ。
つまり、実際に感情を発生させているのは「事実に直面した自分の心の中の文章
記述」であると解釈できる。これは哲学で言うとフッサール現象学の立場であり、
精神医学で言えばアルバート・エリスの「論理療法」の基本的スタンスである。

だから同じ出来事に直面しても、人によって受け取り方は随分違う。
例えば「人が自分の思い通りにならない」といっていつも不満に思っている人が
いるとしよう。この人は「自分は他人をコントロールできなければならない」という
信念(ビリーフ)を持っていて、それを物差しとして当てはめているから、もしそう
ならないと常にフラストレーションを溜めることになる。
しかし「他人はもともとコントロールできるものではない」という風に自分の意識
の中の文章記述を変えることができれば、同じ事実に直面しても「当たり前だ」と
受け止めることができるようになるわけだ。
同様のことは、例えば失業したときでも、失恋でも、近親者の死でも言えるのだ。
あまりに非現実的な文章記述に変更することはできなくても、別の面を見るよう
な文章記述には大抵の事柄は書き換えることができるものなのだ。

僕が農林水産大臣の立場なら、どういう文章記述に変えようとしただろう?
「このような事態に立ち至ってしまった。大変残念だし悔しくもあるが、自分の
 人生を見直すよい機会だというとらえ方もできる。ここで覚悟を決めて全てを
 国民に話し裸一貫から誠実に人生をやり直そう」という記述もあるだろうと思う。
もっともこのように記述を変えるには「大臣じゃなくなったとしても人間として
の尊厳を失うわけじゃない」「代議士でなくなっても信念を貫く道はある」と
いった信念(ビリーフ)を持っている必要はあるのだが。

論理療法について分かりやすく書かれた本を紹介しておきます。

自己変革の心理学 論理療法入門 (講談社現代新書)

自己変革の心理学 論理療法入門 (講談社現代新書)