風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

普遍に至る道

茂木健一郎のブログにアップされている彼の講義をあれこれiPodで聴いている。
この人の話はとにかく知的刺激に充ち満ちているのだが、一番最近アップされた
5月7日の東京芸大での美術解剖学の講義『批評はいつ美になるのか』
最後の15分間が非常に面白く(特に授業に出ていた女子学生との討論が)自分が
かねてから考えていたことにもリンクしていたのでここで取り上げたいと思う。

茂木はこの講義で「批評と美は繋がるのか、繋がるとしたらどういう形で繋がる
のか」ということを「茶道」や「お笑い」を引き合いに出しながら論ずる。
そして最後の15分ほど、美における「個」と「普遍」の話になる。
ゴッホは生涯、自分の「個性」から「普遍」に至ろうと格闘し続けていた』と
いう小林秀雄の「ゴッホの手紙」での見解を引き合いに出し「個性」が「普遍」
に至るには、その人の「生きる文脈」との格闘が必要なのではないか、そういう
格闘があってこそ、「個」は「普遍」に至れるのでは?という意見を提示している。
ここからその問題について女子学生との議論が始まるのだけれど、最後は茂木が
「この話はそれだけで博士論文が書けるような難しい問題だ」と言って時間切れ
になってしまうのだが、非常に面白い論題だと僕は思った。

僕も、実のところ、茂木や小林秀雄と同じように考えている。
つまり単に「個性」をつきつめるだけでは「普遍」には至れない、ということだ。
自分の個性を尊重しよう、とよく言われる。それはそうなのだが、それだけでは
普遍(つまり多くの人に納得性を与えること)に繋がることができるものではない。
それは絵画や彫刻の美に限らず、例えば小説や評論だってそうだろう。
自分がこうだと思うこと(美についての表現でも、言いたいことでも、何でもいい)
を単に思いついて表現するだけならば「アイデア・フラッシュ(花火のようなアイ
デア)」に過ぎない。その表現なり文言なりは、その人の文脈として引き受けられ、
人生での真剣な葛藤として実際に「生きられ」なくてはならない。
それでこそ、作品は「本当の説得力」を持つようになると思うのだ。
言い換えれば「普遍性」をもつ作品は自分が表現したいこと、言いたいことを
「本当に身を賭して生きて」いない限り、生まれ得ないのではないか。

芸術や小説に限らず、ブログもそうだと思う。
ブログの読み方はひとそれぞれで、情報収集に使っている人、軽いコミュニケー
ションツールとして使っているひとも多いだろうと思うが、僕の場合、本と同様に
自分の生に何かを与えてくれるブログを常に探しているようなところがある。
そんな僕にとっての「面白いブログ」の条件を考えてみると、ブロガーが単に思い
ついたこと、今日面白かったことを書くだけではなく、自分の感じたことや考えを、
自分の人生の文脈の中で一旦引き受けた上で(つまり生きるというフィルターを
経た上で)文章表現しているものであることに気づく。
小手先の思いつきを小手先で書いているブログと、自分の生をその中に反映させ
つつ書いているブログ。
それは、少し読めばすぐわかってしまうのだ。

そして、自分の人生の文脈でその内容を引き受ける、ということは「他者を意識
すること」に通じる(なぜなら、生きるという営為は他者の存在と切り離せない
営為だから)。その過程は、記事内容に普遍性を持たせる上で避けて通れないの
ではないだろうか。
そして、その過程は恐ろしい過程でもある。
なぜならその過程によって、記事内容には己れの生の内容そのものが反映されざるを
得ないからだ。

己の存在を賭けて、普遍性へ跳躍しようとすること。
その普遍性への道筋は、芸術でも、文学でも、ブログでも、違いはないように思う。