風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ダブルスタンダード

ダブルスタンダード
基準を二つ持つこと。
そう、善と悪については、僕は一つの統一された基準を持たず「ダブルスタン
ダード」を使いわけて生きている。
これらが自分の中で統一されることは、これからもおそらくないだろう。

【引用始まり】 ---
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
【引用終わり】 ---

歎異抄第三条の書き出しだ。
「善人ですら極楽浄土に行くことができる。まして悪人は、極楽浄土に行くのは
当然ではないか」
この「悪人正機」のくだりは有名だ。
もちろんここでの善人・悪人という区別は一般道徳上の善人・悪人とは違い、
信仰上のものではあるけれども、この歎異抄の奥底に流れる善悪観は僕の持つ
「善悪におけるダブルスタンダード」の一方を構成している。
少し詳しく説明しよう。
歎異抄第13条に親鸞の言葉としてこういうくだりがある。
(原文は引用しません)

【引用始まり】 ---
人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと
私が言ったら、おまえ(弟子の唯円)は直ちに千人殺すことができるはず
である。
しかし、おまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺す
べき因縁が備わっていないからである。自分の心が良くて殺さないのでは
ない。また殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう
【引用終わり】 ---

人殺しという絶対悪に関しても
「本人の意志だけで悪をなせるものではない。本人にはどうしようもない縁
(因縁)と業の結果としてそうなったのだ」
という見方。
この見方は現代の深層心理学に通じる非常に深いものだと僕は思う。
過去の戦争において虐殺を行ったのはごくごく善良な人たちだったではないか。
極悪非道な殺人者は昨日までは「人当たりの良い好青年」だったではないか。
巷で報じられる我が子殺し、残忍な犯罪から戦争における虐殺まで「許せない」
と思う一方で、自分があるシチュエーション、ある縁で同じ状況に放り込まれた
時に「僕のような善人は絶対そんなことはしない」と断言する自信は僕にはない。
逆にそう言い切れる人たち、そう、ワイドショーやマスコミのインタビューを
受けて「いったい何を考えていたんでしょうねー」「許せませんよね」と言って
いる人たちほど、実はもろく弱く危ういのではないか?と僕は思ってしまう。

実に親鸞は、人の心の危うさ、もろさ、弱さを底の底まで見てきた人だと思う。
人間はいつだって「悪人」に転落しうる弱くもろい存在なのだ。
どんな話を読んでも、どんなニュースに接しても、まず想起するのはこの基準。
このスタンダードを、僕は主として「他人」に適用する。

さて、そうすると、世の悪は全て縁(因縁)と業が作り出すもので、本人の意志
は一切関係ないのか?というと、いや、そうではない、と僕は答える。
なるほど、半分は本人の力の及ばぬ因縁と業によるものかもしれない。
しかし、もう半分はやはり自分の意志が招くものだ。
これが僕のもう一つのスタンダード。
このスタンダードは主として「自分」に適用する。

なるほど、僕は世界の縁起絵巻の構成要素の一つにすぎないかもしれない。
しかし、それでも僕自身は意志を持ち、その縁起を多少とも左右できる存在で
あると信じたい。だからこそ、自分が生み出す悪に関しては「自分の意志薄弱
によるもの」と判断する。
自分のことについては「因縁と業ゆえ」という言い訳は絶対にしたくない。

因縁と業の割れ目に落ち込まぬために、僕は自分の心を鍛錬し続けようと思う。
本当にそれに意味があるかどうかなど誰にもわからないのだが。
僕がまだ信仰を持てないのは(つまり”他力”にすがれないのは)こういう部分
に理由があるのかもしれない。