風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

クリストフ・コッホ「意識をめぐる冒険」

ここ1年ほど、死んだら自分の意識はどうなるのか知りたいという思い
にかられ、臨死体験、死後の世界、脳科学の本をあれこれと読んできた。
死ぬと僕の魂だけは別の世界(死後の世界)に飛んでゆくのか?
それとも何もない無になるだけなのか?死ぬと今生の人たちや、死んで
しまった人たちの魂とアクセスすることはできないのか?
そもそも意識というのは本当に脳のニューロンの発火によって発生して
いるもので、魂のような非物質的なものは存在しないのか?
そういったことについて、自分なりの結論を得たいと思ったのだ。

アレクサンダーの「プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後
の世界」やニュートン「死後の世界が教える「人生はなんのためにある
のか」などを読むと死後の世界の実在を信じられる、という気持ちに
なりそうだったけれど、最終的にケヴィン・ネルソン「死と神秘と夢の
ボーダーランド: 死ぬとき、脳はなにを感じるか」で僕の考えは固まり
はじめ、このコッホ「意識をめぐる冒険」が止めを刺してくれた。
大変残念なことに(本当はそうであって欲しくなかった)、僕の意識は
僕が死ねば脳の死と同時に消滅してしまうようだ。そして死後の世界は
たぶん何もない。あの世で亡くなってしまった人たちに再会することも
ないし、僕の魂がどこか次の体の中で新しい生を生きることもない。
最新の脳科学はこの残酷な事実を僕に突きつけてくる。

この本によれば、現在、意識の生成をもっとも合理的に説明できる理論は
「統合情報理論」というもので、自意識にまで上らない脳のプロセス
(著者はそれをゾンビ・システム、と呼ぶ。例えば、歩こうと思った時に
右足を上げて前に振り出して、等をいちいち意識に思い浮かべることなく
自動的に行うような無意識プロセス)を統合的に制御するためのコントロ
ールセンターのような存在(それは恐らくは進化の過程で優位性を持つ
ために生まれたのであろう)が意識である、としており、脳の中で意識が
生み出しているのは、おそらく脳の前方にある前頭前皮質と後方の高次元
視覚領域を互いに長い軸索でつないでいるピラミダル・ニューロンの集団
ネットワークであろうと語っている。
したがって、この部分がシャットダウンされると(眠る、とか麻酔をかける
とかすると)意識は消失する。

この事実を知って、僕は少しの慰めを得た。
つまり、死ぬ(=意識が消失する)というのは「眠る」と同義なのだ。
毎晩、僕は睡眠によって死を疑似体験(予行演習)しているのだ。
なぁんだ、そんなことだったのか、という感じはある。
ただ死の場合、目覚めが永遠にこない、という大きな違いはあるけれど。
あの世で僕の愛する人たちに再会することがないのは残念だし、寂しい。
だから、この世の中で愛する人たちを、そして自分の生を大切にしなければ、
という気持ちはより高まったと言える。
なにせ本当の本当に一回こっきりなのだ。

一方でこの本は刺激的な仮説に触れている。

この考えを突き詰めると、「相互作用する部分から成り立つシステム
であれば、ある程度の意識を持つ」という法則が、この宇宙を支配
していることになる。システムの規模が大きくなればなるほど、また
高度にネットワーク化されればされるほど、意識の程度はより大きく、
より洗練されたものになる。人間の意識が、犬の意識よりはるかに
洗練されたものになっているのは、人間の脳に含まれるニューロンが、
犬の脳に含まれるニューロンの数より20倍も多く、また高度にネット
ワーク化されているからだ。

つまり、人間の脳に限らず動物はもちろん、仮に電子的なネットワークでも
(それが十分高度なものであれば)意識が生じる可能性はある、ということ
だ。意識(魂)はネットワークそのものの構造から生じるシステムの特性
であるというこの考え方は、人間の魂を特別なものと考える宗教の立場から
は受け入れがたいものだろう。

ところで、この本の最後の章に、コッホは極めて個人的な述懐をしている。
この部分が非常に印象深かったので、長いが引用してこの記事を閉じること
にする。「死を思う」という章だ。
(中略

死というものをリアルに考え始めた数ヶ月の間、私は自分が死んだら
すべてがなくなってしまうということについて深く考えた。しかし
結局は、「すべてのものごとはあるがままにある」という自分の
基本的な姿勢へと戻ってきた。何か具体的なきっかけがあって
元に戻ったのかは、今でもわからない。意識にもどらない何らか
の思考を経て、態度が変わったとしか言いようがない。別に悟りを
開いたというわけではない。その後は、毎朝目覚めると、自分が
謎と美に満たされた世界に生きていることを確信するようになった。
今では私は、世界に存在するすべての驚きとの遭遇に心から感謝
している。

ただ、死が私に必ず訪れるということこそが、私の人生を私にとっては
意味あるものにしている。日常生活のなかで感じる喜び、子どもたち
と時間を過ごすときの喜び、愛する犬たち、山道を走り岩壁を登ること、
本を読み、音楽を聴くこと、コバルトブルーの空、これらすべてに
意味があるのは、私が最終的に死ぬからだ。それが自然なことなのだ。

周囲から人々が次々に去っていくことと並行して、妻エディスとは
不仲になり別居した。口で言うのは簡単だが、その背後には決して
文章にできない、長い期間に起こった惨めさ、苦悩、苦痛、怒り
が含まれている(映画監督イングマール・ベルイマンの傑作
「ある結婚の風景」を観た人なら私の言いたいことを理解して
くれるかもしれない)。私は、疲労困憊する危機的状況を何とか
切り抜けるなかで、いかに自分の感情や行動が、意識による
コントロールの利かないものであり、無意識に支配されている
のか、直接的に経験した。
私には無意識をコントロールすることができなかった。
いやおそらく、そもそもコントロールする気など最初からなかった
のだろう。ダンテが作品のなかで、理性ではなく欲望の赴くままに
生きた罪人を地獄へと送ったのには理由がある。
当時は疑いもなく、私の人生において最悪の日々であった。
しかしそれでも、何かが私を前方へと押し出してくれた。
 17世紀の哲学者スピノザは、「この宇宙で永遠に真実であり続ける
何か」という概念を表した。この概念を理解するには、非常に広大な
視点を持たなければならない。私たちの住む銀河系を、銀河の中心
に位置するブラックホールのはるか上の方から見下ろすとしよう。
そこからは、一千億個以上の星々がひしめく渦巻く円が見える。
そして一つひとつの星々の周りには、さらに小さくて光を放たない
惑星が周回している。惑星のいくつかには生命が宿っている。
そのうちの一つには、ある程度の知性を持つものの、争い好きで
社会性のある霊長類の雄と雌が、激しい感情をあらわに、くっつい
たり離れたりしている。そんな大きな視点から見ると、恋愛に
狂ったように熱狂している雄と雌とが哀れに思えてこないだろうか。
当人どうしにとっては、自分たちの恋愛の一挙手一投足が広大な
宇宙に匹敵する重要性をもっていると考えがちだ。しかし私たちの
出会いや別れは、巨大な銀河が一回りする時間に比べれば、一回の
瞬き、ホタルの明滅、矢の通り過ぎる瞬間ほどのあいだの出来事に
過ぎない。
 この永久の時間時間軸、星々の光のスケールから自分を見つめ
直していくうちに、私の苦悩も和らぎ始めていった。

意識をめぐる冒険

意識をめぐる冒険