風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

このサイトの意味

本家と言いつつこのサイトを6月、7月と放置していたが3ヶ月ぶりに記事を
アップしたい。最近、ずっと自分の人生と死について考えていた。
そのあたりについて一度まとめてみたい。

1ヶ月前、父が入院し手術をした。
肺炎を起こしたりして予後が危ぶまれたが、なんとか回復し来週末には退院
できそうだが、介護ベットを入れたり母は仕事を辞めることになったり、実家は
大変な様子だ。父の年齢など状況を客観的に考えれば、恐らく余命はさほど長く
なく、近い将来(父の年齢での健常人の平均余命は4年強である)父を看取ること
になるのだろう。もちろん僕だって少しでも長生きして欲しいが、人間はいつか
は必ず死ぬのだ。

入院してからの父はすっかり気力もすっかり衰え、耳もますます遠くなり、
幻聴が出たり呆けとしか考えられない言動が見られるようになった。
入院前まで、スペイン語と英語でスピノザの「エチカ」やカントの「実践理性
批判」を読み、哲学に想いを馳せていたというのに。。。
父は外交官としての人生を全うし、その後は読書(文学と哲学)に勤しむ日々を
送ってきたが、率直に言って父は社会的に後世に残る業績を上げたわけではない。
しかし、それはたいていの人と率直に言えば「同じ」で、内閣総理大臣だろうが、
徳川家の将軍だろうと、忘れ去られた人がほとんどなのだ。人類史という視点で
考えると、ごく僅かな人を除けばその存在は「ゼロ」ということになろう。

もちろんそれは僕も同じで、僕が死ねば、血を分けた子供以外何も残らない。
というか、血を分けた子供だけが「生きる意味」であることは他の生物を見れば
明らかだ。他の生物は繁殖するためだけに生き、繁殖が終わるとあっけなく死ぬ。
人間だけが生存を有利に運ぶために大脳新皮質を発達させ、情報統合の効率化の
ために「自我」と呼ぶ機能を脳の中に生み出した。
我々が「人生は何のためにあるのか」と考えるのは「自我」の戯れに過ぎないので
あって、実際のところは「個の人生は種の存続のため」にあり、「個の存在の意味」
は「種の存続」のために環境変化に対応できる優位な突然変異体を生み出せるよう
一定数以上、種の個体を担保するためであろう。
人間はイワシやアリと何ら変わらない、ということだ。

しかしながら「自我の戯れ」とはいうもののその「自我」が「何かを残したい」と
訴えるのだ。僕の家内は「今死んでも何も悔いはない。私はもうやるべきことを
やり遂げた。私が死んだら一刻も早く世間から忘れられたい」と言うが僕は違う。
僕が生きたことを少なくとも家族を含め僅かな人でいいから覚えていて欲しいし、
「自我の戯れ」かもしれないが、何かを、たとえ砂粒一粒でも後世に残したい。
僕は欲深いのだろうか。

では僕は死後に子供以外に何を残せるのか?
会社での業績やお金や資産など全く無意味だ。
そんなものには意味を認めない。
もっと違うもの。僕ならではの固有の何か。僕でなければならない何か。
そう考えた時「このサイトの内容だ」と思い至った。
このサイトはこの10年の僕の「自我の戯れ」がほぼ言語化されている。
これを残すのだ、と思った。

(今は公開していないけれど)遺言に残しておけば少なくとも家族はこれを読んで
くれるだろう。そしてネット上で消えない間は、検索などで飛んできた漂泊の
ネットユーザーがいきあたった記事を読み、何かを感じてくれるかもしれない。
それは大海に手紙を詰めた瓶を流すようなものだろうけれども。
今日、改めてこのサイトの意味を僕なりに見つけた気がした。