風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

教養と創造力

教養と雑学の違いについて内田先生の定義ほどわかりやすく的確なものはない、と
思う。以下、引用。


【引用始まり】 ---
教養は情報ではない。
教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも
重要度もまったく異にする情報単位の間の関係性を発見する力である。
雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは
「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。
(中略)
雑学というのはトリヴィア・クイズに「早押し」で解答することである。
だから設問から解答までの時間がゼロであることを理想とする。
つまり、雑学とは究極的には「無時間モデル」なのである。
それに対して真に人間的な知性の活動は「そのこと」をトリガーとして
「お話を一つ思い出す」という時間的な歴程をたどる運動のことである。
               (内田樹「知に働けば蔵が建つ」より)
【引用終わり】 ---


少し強引だが実例を挙げてみよう。
ある絵を見て強い感動を感じたとする。
雑学的には「これは有名なダヴィンチの絵で○○年に描かれたXXという名画である」
ということで、まぁ「名画なら感動して当たり前か」となる。
しかし、教養的にはその絵から受ける感じが一体どこから来るのか思いめぐらすことが
第一歩になる。
この構成、この色遣い、この表現、この筆致。
思いを巡らすうちにふと思いが至る。
「この構成は、モーツァルト交響曲第25番の構成とどこか似ているのではないか?」
そう、第一楽章のあのソナタ形式の緊密な構成が、この絵の構成の緊密さと共通している!
では「人間が感動する」ということはどういうことなのか?
ある種の「構成の形」は人をして感動させる何かを含んでいるのか?・・・
こうやって「ダヴィンチの絵」というトリガーによって、自分にとって未知の何かへ
フライングが起動する。
このプロセスそのものを『教養』と呼ぶ、ということではないか。


さて、ここからが僕の考えである。
教養とは「せいぜい人前でひけらかすことで優位性を演出するための道具」であって、
「日常生活では役に立たないもの」と捉えられていると思う。
しかし、本当にそうだろうか?
日常生活から一歩踏み出すと「創造力」は不可欠である。ビジネスにおいても、研究に
おいても、組織運営においても創造力がなければ立ち行かない分野は多々ある。
「教養は不要」と断言するビジネスマンでも「創造力が不要」と断言する人は少ない
だろう。
では「創造」とは何か?
いかにして「創造」はなされるのか?
「創造力」をつける良い方法はあるのか?


科学上の新発見にしても、思想や芸術における新しい展開にしても、個人の全くのオリ
ジナルの発想のみで行われたことは数少ない。実際のところその多くはそれまでの歴史
の蓄積に上に個人の「ひらめき」によって展開が起こるわけだが、その「ひらめき」の
多くが「他分野で展開されている概念のアナロジーやメタファー」から得られている。
こちらで述べられているノーベル賞受賞者田中耕一氏の事例も興味深い)。
「他分野で展開されている概念から自分の分野に『フライング』してそのアナロジー
メタファーから新しい発想を得ること」とは、まさに上で述べた『教養』そのものなのだ。
やたらめったら「個性」の名のもとに「自由気ままな発想」を奨励したり「思いつきを
試行錯誤」しても必ずしも創造力は高まらないのではないだろうか。
遠回りのように思えても「教養(雑学ではない)」を身につけることが「創造力」を発揮する
近道のように思えてならない。


「創造力を高めるには教養が不可欠である」ということは昔から湯川秀樹氏や江崎玲於奈
氏も言っているわけで、別に目新しいことではないのではあるが、自分で考えたことを
改めて書いてみた。しかるに、湯川氏も江崎氏もあるいは近年増えている日本人ノーベル
賞受賞者の多くも、まだ教養主義が花盛りだった時代に教育を受けた世代である。
僕の推論が正しければ、その後の『手っ取り早く金儲けができるための専門教育』を
受けた世代に創造力を期待するのは難しそうな気もするが、それは悲観的に過ぎるのだ
ろうか?

知に働けば蔵が建つ (文春文庫)

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