風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

平山郁夫の絵

平山郁夫が亡くなった、ということでNHKで、過去放送分を含め平山画伯の業績の紹介
番組を行っている。僕は平山郁夫の絵がよくわからないままここまで来ており、そういう
意味で(TVを通じてではあるが)昨日、今日と興味深く番組を見ていた。
平山郁夫の絵は、シルクロードを描いた連作などで高い世評を得ており、日本画家として
東山魁夷とならぶ巨星と考えて良いであろう。しかし、僕は東山の作品には惹かれる
ことがあるものの、平山画伯の作品にはなぜか心惹かれない。
僕にとっては、心惹かれない画家や音楽家の作品は「なぜ自分が心惹かれないか」という
点に興味があり、それを解明することが大きな愉悦なのだ。


今回、番組を見て思ったのは、平山画伯の場合、画伯の心と作品の間が非常に直線的
で素直であるということだ。そこには、ねじれや迷いやひねりがない。
当たり前と思われるかもしれないが、画伯は美しいものを美しく描いている。
崇高なものを見て、崇高に書いている。
その素直さ、まっすぐさ、分かりやすさが多くの人を惹きつけるひとつの要因だろうと
思う。例えば、シルクロードを描いた作品で言えば、誰もが想像する「月の沙漠」の
イメージが、より美しく、鮮明に、雄大に描かれているし、描かれた仏陀玄奘三蔵は、
誰もが「こうであって欲しいと思っているような」仏陀三蔵法師の姿が描かれている。
その絵から伝わってくるものは、静寂であり、美しさであり、雄大さであるが、反面、
不安や、謎や、邪悪さや暗いものは伝わってこない。平山画伯ご本人のお話を聞いても
画伯の安定した情緒や、まっとうでまっすぐな人柄などが伝わってきて、絵はご本人の
心を写しだしているのだろう、と感じさせられた。そして、多分、その部分こそが僕が
画伯の絵に心惹かれない理由なのだろうと思い当たった。


平山画伯の言葉に次のようなものがある。
「生きることは、バランスを求めることであり、美しくなろうとすることだ 」
「絵は美しくなくてはならない」
反対に、故・岡本太郎はこのように言った
「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよく
 あってはならない」
僕には(岡本太郎の作品は好みではないけれども)岡本太郎の言葉のほうがより心に
落ちるし、芸術に関して的を射ている、と思う。


うまく言語化できないけれども、芸術は、人生の全ての局面を含んでいる必要がある、と
僕は思っている。全ての局面とは、不安や、謎や、邪悪さや暗いものも含む、という
ことだ。晩年のモーツァルトシューベルトの曲を想像してみればわかる。
彼らの曲が数百年の時を経て、なお愛され続けているのは、彼らのの曲が美しく叙情に
富んでいるからではない。彼らの作品には必ず、不安や、邪悪さや、暗いものが伏流して
いる。ただ美しいだけではないから、彼らの作品は人生を包含する「芸術」になっている。
彼ら自身、不幸で哀しく辛い人生を送ったが、その一部は間違いなく彼らの曲の中にも
埋め込まれて生きているのだ。


番組によれば、平山画伯は被爆体験を含め、大変に苦労の多い辛い実人生を送って
こられた方のようである。だからこそご本人の『生きることはバランスを求めることで
あり、美しくなろうとすること』という言葉通り、絵の世界に「美しさ」を求めたのかも
しれない。
しかし、美しさにしても、静寂にしても、悟りにしても、それだけで成立するものでは
ない。醜さがあり、喧噪があり、邪悪さがあって相対的にのみ成立するものである。
画伯の作品が、人生や世界の「真・善・美」の半面をもっぱら希求し描こうとしたものと
すれば、人生や世界の全てをなんとか包含しようと苦闘している作品(それらの多くは
結果的には失敗しているのであるが)と比して、力を持ち得なくても不思議はないのでは
ないか。画伯の言葉は、市井を生きる常識人のスタンスとしては頷けるものであるが、
狂気すら取り込まずにはおれない芸術家のスタンスとしてはいささか不十分だろう。


世間の平山画伯の絵の人気に鑑みると、僕の見方はかなり偏屈なものかもしれない。
しかし、ここで言語化してみたことで、僕の中で自分なりの納得は生まれた。
どうやら、僕は「ややこしい絵、ややこしい音楽」が好きなようである、笑。
それは、ひょっとしたら、僕自身が実人生において想像を絶する辛酸を舐めたり、
血を吐くほどのの苦労をしていないことに起因しているのかもしれないのだが。