風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

シュートを打てない日本人

サッカー東アジア選手権の日本対韓国戦、3−1で完敗。
テレビで見ていて残念であり、がっかりである。
解説者も指摘しているが日本の選手はシュートが少なく、パスが目的化している。
その通り、と思いつつも、ある面でこれは仕方ないよな、とも思う。


日本社会の持つ民族誌的バイアスに「個で責任を負うのは極力避け曖昧にする。長い
ものには巻かれる。場の雰囲気を壊さないように気を付ける」という部分がある。
これは日本社会(あるいは日本人の)突出した特徴である。
「シュートを打って外れる」のは強烈に個が目立つし、責任の所在も明確になるので、
普通の(頭の良い空気の読める)日本人にはやりたくないことなのである。
いや、やらねばならないし、求められていることも選手達にもわかっている。
でも、民族の深層心理がそれに抗うのだ。
それを応援する我々は選手達に求める。
いやはや、まことに身勝手で残酷なことである。


欧米人やアジアの他の国々の人たちとビジネスをしていても、彼らの自己主張の強さ
には辟易とすることがある。自己主張の強さ(個の強さ)は言い換えれば「空気読ま
なさ」であり、日本人としては時々ひどい違和感を覚える。この強さがあってこそ、
サッカーではシュートが打てるし、ビジネスでは次々にベンチャーを興せる。
そうだそうだ。だからこそ、日本人は欧米に負けぬよう強い個を持つべきだ、という
議論もよく聞かれる。しかし「自己主張を強くする(=個を強くする)」ことは本当
に日本人を幸せにするのだろうか?


思えば日本の責任を曖昧にする集団主義が効率的に作用したのは、歴史的に見れば
キャッチアップの過程だけだったのだなぁと思う。お手本があってまねをすれば良か
った時代、即ち古くは大和朝廷成立あたりや明治の文明開化、そして戦後の高度成長
には非常にうまくフィットしたけれど、空気に流されてはいけない状況や先頭に立っ
てリスクを冒して何かを変えねばならないシチュエーションではうまくフィットしな
かった。(第二次世界大戦に向かう部分や、20世紀末の新自由主義に流されるあた
りなど)。自分の頭でシステムをいちから考えることが苦手だからそれも頷ける。
特に新自由主義やらグローバリズムなんてものは、日本人や日本社会のもっとも苦手
な「個の強さと自己責任」を要求するシステムなのであって、それを無理くり取り入
れたりするものだから、鬱病患者や自殺者が一気に増えるのも当たり前である。
自分たちの性格にもっとも合わないことを敢えて取り入れるというのは、一種の修行
なのか、はたまたマゾなのか(苦笑)。


日本が日本的であることには裏と表がある。
先に挙げた「個で責任を負うのは極力避け曖昧にする。長いものには巻かれる。場の
雰囲気を壊さないように気を付ける」ことは反対を見れば「個を厳しく責めず、場の
雰囲気に融和的であればその人を許し、皆で和気藹々と過ごす」と言うこともできる。
それが日本人皆にとって居心地が良いことならそれもまた可であると最近僕は思う。
たとえ世界で何番目のGDPになろうと、世界をリードできなくても、素のままの自分
たちでいられるのならそれはそれで幸せではないだろうか?
無理矢理、性格に合わない仕事を続けて高い収入を得ても幸せになれないことは、
いい加減誰だってわかっているはずだ。


話を戻す。
日本がサッカー大国になる日はいつか来るのだろうか。
二つのケースが考えられる。
ひとつは日本人と日本社会が今の日本的特性を捨てて、他のアジアの国や欧米のよう
なメンタリティを自然に当たり前に持てるようになった時。そしてもう一つは、単に
敏捷性と持久力の高さを「日本人の特徴」と捉えるのみならず、「個が責任を取りた
がらないメンタリティ」まで取り込んだ形でサッカーのやり方を根底から作り直し、
真に日本的なサッカーを構築出来た時だ。
最初の解は、そうあって欲しくない(そんな日本に住みたくない)し、次の解はサッ
カーというスポーツの本質を否定するものだからほとんど不可能だろう。


日本代表の岡田監督も苦しい辛い仕事をしているのだ。
本当にお気の毒だと思う。