風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

知性のペシミズム、意志のオプティミズム

思想家アントニオ・グラムシの有名な言葉に「知性のペシミズム、意志のオプティ
ミズム」というものがある。
この言葉はグラムシムッソリーニによって投獄されている期間に綴られた「獄中
ノート」にある言葉ということだが、この言葉の僕なりの解釈はこういうことだ。


人々は、ペシミズム(悲観主義)とオプティミズム(楽観主義)の間で情緒的に振り
回されているが、グラムシは自分はそういう立場は取らない、と言う。
彼の知性は物事を本質的にペシミスティックに捉えるけれども、立ち位置としては
自らの意志の力で常にオプティミスト(楽観主義者)であり続ける。
これは何かに対する事実の分析でもなく、解釈でもない。
グラムシの実存的な立ち位置の表明であり、こう生きる、という決意表明なのだ。


知性とは本質的に暗く、ペシミスティックなものである、というのが僕の考えだ。
物事を知的に捉え、多方面から客観的に分析すればするほど無数のリスクや問題点が
出てきて、それについて解決可能性を丹念に検討してゆけば、どんな事柄でもかならず
悲観的結論に傾斜してゆく。何事も力及ばない、何をやっても無駄だ、意味がない、
可能性が低い、デッドロックだ、という風に考えることを「ペシミズム(悲観主義)」
と呼ぶわけだから、知性がペシミズムと仲良しなのはまぁ間違いない。


究極を考えれば、あと数十億年後には宇宙は熱的死に至るわけで、その時には個人の名前
や金銭や浮世の名誉はもちろん、人類も宇宙の歴史も消えているわけでそう考えると何事
も無意味である、という悲観的見方ももっともだし、そこまで大げさに考えなくても、
「どんな人間も必ず死ぬ」という避けがたい事実だけでも、人の将来は『本質的に絶望』
なわけで、知的な人間にペシミズムが親和性が高いのは理解できる。


だからこそ、とグラムシは言う。
自分は知性が呼び込むペシミズムに負けず、意志の力でオプティミストであり続ける、と。
グラムシオプティミズムとは、俗に言うネアカだとか、浅薄なポジティブ志向とか、
凡百のプラス思考だとかを遙かに超越した、血を吐くような彼の実存的表明である。
知性の力で地獄の底を予見した者だけが持てる、決意としてのオプティミズム
グラムシの壮絶な意志のオプティミズムに僕は心から共感を覚える。


# アランの「定義集」に楽観主義の定義として「悲観主義を退ける意志を持つ立場」と
  いったような表記があったように記憶しているが定かでない。
  自宅で本を確認していずれ追記したい。

## アランの「定義集」より「悲観主義」の項を抜き書きしておく。


【引用始まり】 ---
悲観主義
自然的なもので、それをあかしするものはいっぱいある。なぜならだれも
みな悲しみ、苦悩、病気、死をまぬがれ得ないから。
悲観主義は厳密に言えば、現在は不幸ではないが、これらのことを予見して
いる人間の判断である。悲観主義は自然と体系のかたちで表現されて、
(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、あらゆる感情
の悪い結末を予言する。
悲観主義の本質は意志を信じないことである。
オプティミスム(楽観主義)はまったく意志的である。
【引用終わり】 ---