風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

<美>について - 知のモラル(1)

東大教養学部の文系学生一年生のためのサブテキストとして書かれた本
に「知の技法」「知の論理」「知のモラル」という三部作がある。
立ち読みして「知の技法」は自分には不要な本、と判断し「論理」と
「モラル」だけかなり前に購入した。読んでみると、僕にとってすごく
刺激的かつ面白くて、それから時々本棚から取り出して、読んでは考える
大切な本になった。

確かこの三部作、出版されたときに「知をマニュアル化するとは!」と
いう批判の声があがったことを記憶しているが、それは「知の技法」に
ついては当っていても、その後の二冊については当てはまらない。
このシリーズは、各章ごとに違う先生が原稿を担当しているが、それ
ぞれの章が非常に読み応えがあり、なおかつ(象牙の塔の外にいる我々
一般人にとっては)新鮮な知見に満ちあふれていると思う。
大学一年生向け、ということで平易に書かれているのもありがたい。

ということで、これら二冊の内容について、これから不定期に少しずつ、
僕の思うところを交えてここで紹介したいと思う。
前置きが長くなったけれど、今回は「知のモラル」より蓮實重彦氏の
「<美>について」を取り上げる。

蓮實氏はこの章で、谷崎潤一郎の「疎開日記」から「戦争とは斯くも
美しきものかな」という感慨の一文を引用している。
大戦末期のある快晴の日、防空壕に逃げ遅れた谷崎の頭上を敵機が飛び
去っていった。この時、敵機を見上げた谷崎の率直な感想が、この言葉
なのだ。

この谷崎の言葉、戦争の本質から離れた、単純な美しさへの憧憬なのだ
ろうか?「陰影礼賛」で日本的な美について語った谷崎は、ここには
まるでなく、一人の子供に還ったように飛び去る戦闘機の美しさに陶酔
しているようにも感じられる。

思えば同じようなことは、我々も常日頃、目にすることだ。
イラク戦争湾岸戦争でのモニターを通して眺める驚異的に正確な爆撃、
土煙をあげて疾走する戦車、最新鋭の戦闘機の発進、などなど。
善悪を超えて「美しい」「すごい」と思ってしまうことはないだろうか?

蓮實は谷崎のこの言葉は「知性の放棄による感性の世界への甘美な撤退
を意味していない」と言う。

「戦争とは斯くも美しきものかな」という谷崎の感慨には、いまの生き
延びている「美しさ」という概念の「一般性」の無自覚な確信に対する
いらだちがこめられいています。そのいらだちを、彼は、あえて「美しき
ものかな」と書いてしまうという作家的な敗北(記者注:「陰影礼賛」
では谷崎は「美しい」という安易な語彙の使用を徹底的に避けている)
によって実践的に表現しているのです。それは、知らぬまに政治に奉仕
してしまう国家の審美主義化があからさまに露呈させてしまう知性の
欠如への、ほとんど無謀な闘いだと言えるかもしれません

蓮實の言いたいことを、少し、噛み砕いて書いてみよう。
ことの本質を考えずに「美しい」「気持ちいい」「すごい」と思って
しまうこと、いや思ってしまっても、それを「しょーじきな感想だから
イイじゃん」と言ってしまうことは、蓮見にしてみれば、その時点で
知性の敗北だ。「美しさ」という「一般性」に逃げ込んで感性の世界
で惑溺することは、知性の放棄に他ならないことだから。

「真、善、美」と並置して論じられる。
「知性と感性」と対比される。
しかし、実はここに大きな落とし穴が、ある。
感性は独自性を持っているようで、実はごく「一般的」なものなのだ。
(だからこそ、わかりやすく、人々の共感が得られやすい)
感性そのものには色はなく、その事実の持つ意味合いと重さは知性によって
しか測れない。知性の裏付けのない感性は、危険ですら、ある。

対空砲火の閃光を見て、花火のようだ、美しい、と思ってしまうことだって
ある。映画の悪役が残酷な死に方をした時は「すっとする」ことだってある。
LSDを飲んで己の全能感に酔いしれる人だっている。
確かに「美しく」「気持ちいい」のに、どこか間違っていないか?

美しい、すごい、気持ちいい、に溺れることなく、その本質を捉えること。
それは知性にしかできないことであり、知性によってのみ、人は感性の
陥穽(シャレじゃないです)から一定の距離を取ることができる。
感性が全て、と思っている(人が多いであろう)新入生たちに、蓮實は
どうしても、このことを言いたかったのだと思う。

知のモラル

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