風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

戦争について語ること

最近、内田樹氏の著作をあれこれ買って読んでいる。
どれも面白い。
その中の一冊「ためらいの倫理学」の中の「古だぬきは戦争について語らない」を
読んでいろいろ考えるところがあった。
(この文章は内田氏のHPのここに全文アップされています)
内田氏はアメリカの知識人が紛争に対して取る態度をこのように表現する。

【引用始まり】 ---
彼ら(アメリカの知識人の多く)はまず「勉強する」。
情報を集め、文献を読み、当事者にインタビューし、現場を訪れ、戦争の
空気を経験しようとする。いま世界のどこかで行われている戦争について、
どれほど「知識」を持っているか、どれほど熱心に勉強しているか。
それが知識人の知的威信と直接リンクしている、と彼らは信じているからだ。
 それだけではない。十分な情報収集のすえに、戦争の全体像を捉えたと
確信するや、彼らは「行動」を開始する。紛争当事国の一方に理があると
信じれば公然と支持を表明し、あらゆる手立てで支援し、それでも足り
なければ義勇軍に身を投じて銃を取ることさえ辞さない。
どちらにも理がないと思った場合には、「反戦」の大儀を掲げて激烈な
反戦運動を展開し、翻ってその運動を支持しない知識人を手厳しく批判
する。それは、ある戦争について「どれくらい徹底的にコミットするか」
が知識人の倫理性と直接リンクしていると彼らが信じているからである。
【引用終わり】 ---

そして、どのような形であれこのように「ある種の知的努力さえすれば、どんな複雑
な紛争についても、その理非曲直をきっぱり判定できるような俯瞰的視点に達しうる、
と彼らは信じている。」とアメリカ知識人特有のメタ認知の浅さ、単純さをこのよう
に批判する。

【引用始まり】 ---
私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場
経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が
自分の知っていることをどれぐらい疑っているか、自分の見たものを
どれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれ
くらい意識化できるか、を基準にして判断する。
【引用終わり】 ---

つまり、このアメリカ知識人的な態度は「知性が低い」と断じているわけである。
面白い。
というよりも、僕も内田氏の主張にここまでは全面的に賛成である。
内田氏の主張しているところは特別なことではなく、構造主義ポスト構造主義思想
を少しでも自分の身に引きうつして考えたことがある(単に知識として知っている。
ではない)者ならば誰しも常識と考えるレベルであるし、肯えるところだろう。
構造主義にしても、ポスト構造主義にしても、現実を生きる世界の諸問題の処方箋を
書く力は(僕の知る限りでは)ないけれども、人類の知の地平を一定まで広げたこと
は紛れもない事実であるし、人間と社会を理解する上では欠かせないベースなのだ。
しかしながら(「構造的無知」でも述べたように)どの国においても仮にも「知識人」
と呼ばれるような人たちであってさえ、こういったごく基本的な哲学的教養さえ持って
いないことが多い。
これは科学で例えるなら、宇宙論を語っている癖に相対性理論を知らず、全てを
ニュートン力学で説明しようとしているようなものだ。
恐ろしくも残念なことではあるけれども。

さて、僕が内田氏に同意できないのはここから先だ。
内田氏は以上を持ってして、このように語る。

【引用始まり】 ---
私は戦争について語りたくないし、何らかの「立場」もとりたくない。
(中略)
そもそも私には何も言うことがない。戦争のことは、私には「よく分から
ない」からだ。私はただ戦争が嫌いで戦争が怖いだけである。
【引用終わり】 ---

つまり「何もしない」とおっしゃっている。
「語り得ぬことには沈黙せねばならない」し「分からないことには態度表明はでき
ない」ということであろう。
しかし僕は、この点については残念ながら同意はできない。
僕も、さも分かっているかのように『正義』の側に立って意見を自信ありげに主張
するべき、と言っているのではない。
上に述べた通り、それは論外だし愚かなことだ。
知的であろうとする限り、自らに対する疑いは一瞬も手放してはならない。

しかし、世界のどこかで何かが起こっている「らしい」、沢山の人が死んでいる
「らしい」、どうもある国で圧政が行われている「ようだ」、と聞くとき「関係ねー」
とか「分からないから黙ってる。戦争は怖いけど」と黙り込んでいて良いのか。
「調べてみる必要があるのではないか」「何か手だてがあるのではないか」と考える
だろうし、その意見表明をするのが自然だろう(もっとも僕の場合は有名人でも知識
人でもないから、意見表明と言っても選挙に行くか、せいぜいブログに書くかだが)

上にも書いた通り、構造主義ポスト構造主義は世界認識に欠くことができない知的
メソードであるけれども、残念ながら現実社会に対する処方箋を書くことができない。
だから、誠実かつ正直であろうとすれば内田氏のように「何もできないし何も言え
ない」ということになるだろう。

しかし、現実に世界は動き、人は苦しみ、戦争で死ぬ。
我々の手には物理学における相対性理論に相当する社会理論は残念ながらない。
しかし、たとえ時代遅れの「ニュートン力学」しか我々は持っていなくても、何かは
しないではおれない。もちろん何かをすることが、さらに大きな災厄を引き起こす
可能性もある。それでも、僕は、いや我々は不確かで、あやふやで、錯誤に満ちて
いたとしても、何かを判断し、何かの立場を選択し、何かを行なうしかないだろう
と思う。たとえ、世界や人間や社会の事実、本質を掴みそこなっていたとしても。
それこそが「生きる」という人間の実存的あり方の根本ではないだろうか。