風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

バビロンの流れのほとりにて

森有正の「バビロンの流れのほとりにて」「流れのほとりにて」を再読している。
この人は終生、自分自身がまともな人間になるために哲学していた人であると、読めば
読むほど痛感する。そのストイシズムは痛々しく、痛烈で、純粋で逃げを知らない厳しさ
に満ちている。森はアランをよく引用するが、森自身の姿はユーモアと余裕に満ちたオプ
ティミストのアランよりその弟子のシモーヌ・ヴェイユに似ているようにも思える。


森は「哲学・思想を研究した人」ではなく終生、自分の為に「哲学した人」である。
哲学しないではいられない、という(ある意味)不幸な生い立ちの人間が一定数いて、
彼らが自分を救うために考えに考えて、自分の思考を整理するために書き付けた
ものが「哲学書」として出版され「哲学者」と呼ばれることになったりする。
森がそのひとりであることは言うまでもない。


彼の哲学の手法。
それは一つ一つ石を積んで堅固な建物を造るのと等しい手法である。
自らの「感覚」が「経験」を通して人間の「普遍」に至るということ。それこそが自分
が生きること(生きる意味ではなくて)である、という思想であるからして、感覚を
研ぎ澄まし「体験」ではなく「経験(実際に自らの身に起こった事柄を単に思いだし
懐かしむのではなく、思考の種として弁証法的に発展させ未来を開くために使う)」
することを通して、ひとつの普遍として人間が共有できる「定義」に至る、という
手法。「バビロンの流れのほとりにて」では森が旅に出たり、景色を見たり、日常を
送る中で、ひとつひとつを「経験」し、普遍に繋がろうと真剣勝負で考える様子が
描かれている。


それを読んで深く共感するのは、僕自身がそのスタンスにおいて同じだからだと思う。
僕にとって読書は暇つぶしではない。読むことで少しでも普遍にいたる何かを見つけ
出したいからであって、その道行きは結局孤独(単に寂しい、という意味ではない。
森や福永武彦が言うところの実存としての孤独、という意味である)であって、誰にも
共感されることもないだろうし、理解されることもないだろう、と判っている。
判っていても「それ」をやらずにいられないのだ。
なぜなら「それ」は僕にとって「生きる」ことと同義であるから。
森有正がまさにそう言っているように。


森の本を読んで強く共感するとともに、このやり方で良いのか、という疑問も脳裏を
かすめる。実際の世界はもっと湿度と猥雑さに満ちていてこのやり方だけでは捉え
きれない。
ではどうすれば良いのか。
どうすれば死ぬまでに「世界の普遍」に少しだけでも近づけるのか。
単に勉強したって駄目なのだ。
自分が求めるものを求め、感覚し、経験し、考えてゆくしかないのだ。
そう、ひたすら時間をかけて、自らの熟成を待ちながら。
年老いた僕の父親が、未だにスピノザとカントを読み続けている意味がやっと最近
わかるようになった。