風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「複雑さを生きる」 〜ノート?

「ノートを取ること」で書いたこの本に悪戦苦闘しています。
ノートを取りながら読んでいるのですが、あれ、よくわからない?と思う箇所
を何度も何度も読み返すと、やっと「あ、これは著者の視点と読んでいる僕の
視点が違うからわからないのだ」と気づいたりする。
そんなことでまだ2/3ほどしか精読も進んでいません。
こんな調子では全体についての記事など読み終わっても書けるとは思えない
のですが、部分部分で僕にとってのインパクトを感じた部分を何回かに分けて
要約・抜き書きしてゆきたいと思います。
自分の言葉でまとめることは何より理解を助けると思うので。

コミュニケーションの本質
【引用始まり】 ---
コミュニケーションとは「まず意図があり、それに基づいて行動し、それを
受け取った側が解釈して成立する」のではない。行動が行われたときにその
行動と同時に意図と解釈が同時に立ち上がり、コミュニケーションが成立する。
【引用終わり】 ---

この文章を読んだとき「え?」と僕は思った。
よくわからなかったからだ。
そして何度も繰り返し読むうちに「これは、コミュニケーションを第三者的観点
から眺めた場合については当たっている」と思うようになった。

安富氏はコミュニケーションを既に相手との間に「場が成立している場合」と
そうでない場合に分けて論じている。
「場が成立している」とはどういうことか。
それは例えば、僕と誰かの間に既にある関係(親密である、とか険悪である、
とか)がお互いの共通理解として出来上がっている状態のことだ。そういう状況
では人はごくさりげなく相手に対して「何かを言い」「何かをする」。

例えば「馬鹿だねぇ」と僕が相手に言ったとする。
仮にお互いに親密な場が出来上がっていたら、それは相手は「ジョーク」や
「親しみ」と「解釈する」ことになり、同時に僕はそういう「意図」を持って
いたことになる。逆に険悪な場が出来ていたとすると、それは相手によって
「侮辱」と解釈され、同時に僕は「悪意」という意図を『持っていたことに
なる』。

では場がまだ形成されていない関係ではどうなるのか?
その場合、お互いに何の情報もないままだと「両すくみ」になる、と安富氏は
言う。「両すくみ」の状態では一方が勇気を奮い起こして「何か」をするまで
何も起こらない。そこでどちらかが何か、例えば「にっこり笑う」とか「手を
差し出す」とかすれば、相手によってそれは「好意」と(あるいは「悪意」と
^^;)解釈されると同時に「好意」(あるいは「悪意 ^^;」)という意図を
『持っていたことになる』。

この『持っていたことになる』という部分が重要だ。
つまり、安富氏はコミュニケーションで重要なのは「本人の主観的意図」では
ない、と言明していることになる。「相手によってどう解釈されるか(=客観的
意図)」こそが重要であり、社会の構成要素(別の「ノート」で取り上げるが
安富氏は社会の構成要素は「人間」でなく「コミュニケーション」だと述べて
いる)に重要な関わりがあると解釈しているのだ。

僕が最初ヘンに思ったのは僕の意識が「主観的意図=(主体の意志)」に囚わ
れていたからだと思う。例えば人間社会の様子をマクロに神の視点から眺めた
としたら、そこで重要なのは「本人の主観的意図」ではなく交換されたコミュ
ニケーションの結果として立ち現れた「場の質」ということになる。
この視点は僕にとって新鮮なインパクトだった。

我々が(いや僕の場合には、と言うべきでしょうね ^^;)コミュニケーションに
ついて語る時、どうしても主体の意志や意図という部分が議論に絡まっている。
「自分は○○のつもりだった・・・」
「そんなつもりではなかったのに・・・」
そういう日常に起こる失敗の記憶が自分の身に焼き付いているが故に、我々は
(いや僕は ^^;)コミュニケーションについて語るとき主体的意図を過剰に
大きく考える癖がついているのかもしれない。

コミュニケーションにおける重要性は「主体の内的な意図」にはなく、行動の
結果として立ち現れてきた「場の質」にこそあること。
そして、人間の社会システムが円滑に作動しつづけるためには、この「良好
な場」を再生産し続けることこそ何より重要であること。
この二つの重要なポイントを安富氏は示唆している。

複雑さを生きる―やわらかな制御 (フォーラム共通知をひらく)

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