風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

教育とパラダイム

そもそも公教育は「国家にとって有為な人材を育てること、そしてせめて有為でなく
とも社会の安定と発展に寄与できる人材がマジョリティになること」を目指して創ら
れたものと考える。しかしながら公教育が創られた時代と現代では、教育の前提と
なっていた「暗黙のうちに了解が成立されていたパラダイム」が変化している。
それは『個人が共同体のために寄与するのは(道徳的、と言う意味でなくて損得も
含めて)常識』というパラダイムである。


太古の昔、人間は群れで生活をはじめ、共同体を作り、社会に発展した。
生存競争に有利だったからではないか、とも考えられるが遺伝子レベルでそのように
刷り込まれているのかもしれない。ともかく人類は発生してから社会を作ることを
止めたことはないし、これからもないだろう。
「公教育」という近代社会特有の仕組みを離れてみても「教育」は常に存在してきた。
そこでまず教えられたのは『共同体の中での適切な振舞い』である(冠婚葬祭、家族・
年上・年下・他共同体の人への接し方、共同体の中でして良いこと・悪いこと)。
年代や地域によってその内容には差異はあっても、こういった事柄が教えられない社会
共同体はなかったのではないかと推測する。


ところが欧州でルネサンスを経て産業革命に至り、共同体の重さよりも個人の重さを
重視する思想・哲学が興隆し世界に広がることになる。共同体の重さを個人の重さよりも
著しく重視したマルクス主義思想の破綻がそれを加速し、技術と産業の発展もあって、
「共同体を意識せず個人が好き勝手出来る社会」が世界の一部の発展地域において奇跡的
に実現できることになった。日本においても、バブル期を挟む1970年代〜1990年代中盤
まで、そのような社会を実現出来たと言っても差し支えないだろう。


現代日本は既に社会の興隆期・安定期を終え、現段階では衰亡しつつあると言って良い。
しかし衰亡しつつあるからといって、人々のパラダイムはすぐには戻らない。
徐々にそちらに向かう論調が出てきつつも、まだまだ「共同体を意識せず個人は好きに
振舞って良い」というパラダイムが人々の頭の中に刷り込まれマジョリティを占めて
いる。まずこのパラダイムを、歴史的な人類の常識レベルにまで戻してゆく作業が教育
の前提段階として必要であろう。一気に戻すのは無理としても「きちんと挨拶をしよう」
とか「困っている人がいたら助けてあげよう」とか「お金より大切なものがある」とか
そういう超初歩レベルから子供に説明をしてあげる必要はあるし、大人にも「子供や親
は教育において顧客ではない」とか「周囲の幸福なくして個人の幸福はあり得ない」と
いったレベルの常識を浸透させていかないと、この国の国力と国民の幸福度は下がること
はあっても上がることはなさそうである。