風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「濁」は呑まずに生きたいと思う。

昨夜、山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」をテレビでやっていたので見た。
前半の労働組合が主題に取り上げられていた部分は、僕たちの年代ですら激しい
労働争議を目にしなかったわけであるから、最近の人達がどう受け止めるのだろう
と少々気になった。また、海外赴任(左遷)も大きな問題として取り上げられてい
るが、当時の海外赴任は現在と違うことを実感として捉えられる人はどのぐらい
いるのだろうか、とこれもいささか気になった次第。
まぁ原作通りであるから仕方ないのだが。


さて、ドラマの中で三浦友和演じる組合の元副委員長・行天が経営側に寝返る
シーンで「清濁併せ呑む大きさを持て」と経営側から言われていた。
「清濁併せ呑む」という言葉はポジティブなイメージで語られる(特に企業社会では、
スケールの大きな思考が出来るようになる、大きな人物になる、というような意味
合いでよく使われる)ことが多いが、果たしてどうなのか。


僕自身は「濁」は呑まずに生きたいと思うし、特に僕のようなタイプの人間は
「濁」を呑んではならないと思う。「清濁併せ呑む」という言葉で反射的に
思い出すのはアドルフ・アイヒマンのことである。ホロコーストで数百万の
ユダヤ人を死に追いやった責任者であったアイヒマンは、厳格で真面目な小役人
で裁判においては「私はただ、上官の命令に従ったまでだ。」と述べた。
仕事熱心で真面目、そして上官の命令に忠実だったアイヒマンは、虚構の大儀に
身を捧げ業務を忠実に実行し、無辜の人々を虐殺した。


これだけ読むと、彼はユダヤ人虐殺を自らの主義主張と合致したものとして嬉々と
して行ったかのようにも取れる。しかしアイヒマンは裁判でユダヤ人虐殺について
「大変遺憾に思う」とも述べている。そう思いつつも彼は虐殺を執行する書類
にサインをしたのだ。そう、彼は組織の中で必要とされる「濁」を呑んだのである。


僕は仕事熱心だし、真面目だし、達成指向性が強い人間だ。
一方で僕は、自分の中にアイヒマンが住んでいることを感じる。
だから「清濁」の「濁」を呑まないように注意しないといけない。
一度「濁」を呑むと、アイヒマンのように、「沈まぬ太陽」の行天のように、「濁」
に忠誠を誓い、とことん遂行してしまうかもしれない。
「スケールの大きな人間になれ」などという言葉に踊らされないようにしよう。
「スケールが小さくて結構です」と言って「濁」を呑むことを固辞して生きようと思う。