風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ディタッチメントについて

ディタッチメント(detachment)について考えている。
ディタッチメントとはイギリス経験主義科学で使われる用語であるが、茂木
健一郎氏の著書「脳整理法」での説明が簡にして要を得ている。

【引用始まり】 ---
科学的世界観とは、理想的には、あたかも「神の視点」に立ったかのように、
自らの立場を離れて世界を見ることによって成り立っています。そのことを、
科学者たちは、「ディタッチメント」(detachment)をもって対象を観察する、
と表現します。「ディタッチメント」は、もともとイギリスの経験主義科学
を特徴付ける言葉であり、日本語に直せば、「認知的距離」とでも訳せる
でしょうか。
(中略)
(イギリスのケンブリッジ大学等での討論では)
たとえ自説について議論する際にも、ディタッチメントを持って、それが
自分によって提出されたということを忘れたかのように、公平、かつ客観的
に論ずるべきだという態度は、多くの科学者によって共有されているように
見えました。
 「この理論は、あそこは長所だけど、ここはまだ弱いね。この部分は実験
データによってサポートされているけれども、あの主張はまだ裏付けがないね」
 あたかも、自分の目の前の机の上に置かれたオブジェを眺めながら、皆で
「ここはちょっと出っ張っている。ここは引っ込んでいる」と議論している
かのような、ある意味では狂気とさえ言えるような静かなディタッチメント
の雰囲気がありました。
【引用終わり】 ---

さて、科学を離れて我々の日常の仕事の場を考えてみる。
例えばある製品についての営業戦略、マーケッティングについて議論している
としよう。僕の会社の会議では基本的には「ディタッチメント」は存在しない。
製品戦略の担当者はいかに自説が正しいか熱弁をふるう。その際には自分に
とって不利なファクターや状況は伏せられるか無視されることが多い。
そして誰かがそれに突っ込むと、気色ばみながら「そこはやってみないと」
とか「なんとか頑張るしかない」などといきなり帝国陸軍の万歳突撃のような
話になる。「熱意」と「冷静な分析」は無関係なはずなのに何故かこうなる。
自分のメンツや評価が絡んだ瞬間に皆、頭に血が上ってしまうのだ。

一つは、会議で冷静に「ディタッチメント」していると「やる気がない」
と受け取られがちであることも原因であるように思う(笑)。ムキになって
熱意を見せているほうが覚えがよろしかったりするのです。
その結果、熱意に押されていい加減な計画が承認され、実行して多大の損害を
出したりするわけだが、その場合も「事前の冷静な分析が足らなかった」という
反省より、実行中に発生した障害が「当初は予期しなかった障害」として延々と
説明され、いや今回はたまたま運が悪かった、というような結論になり、責任も
うやむや、反省点もあいまいに葬り去られることが多い。

こうしてみると、我々は太平洋戦争の時代からたいして進歩していないと
思わずにはいられない。僕たちビジネスマンも「帝国海軍・失敗の研究」や
「日本軍の小失敗の研究」などの本も読んで学んでいるはずだが、結局同じ
ことを繰り返している。「ディタッチメントな態度」が日常に受け入れられ
定着しない限り、これからも同じことが繰り返されるのだろう。
僕たちは、昔の人を笑えない。