風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

「ウェブ人間論」

平野啓一郎氏の小説は読んだことがないのだが、この人が書いた「本の読み方
スロー・リーディングの実践」という本を読んだことがあり、なかなか面白い人だ、
と思っていた。
この本は平野氏と「ウェブ進化論」で大ブレイクした梅田望夫氏との対談本である。
ウェブが進化し、ブログやSNSのような新しいシステムが出てくることで、人間は、
あるいはその間のコミュニケーション(つまり人間関係)はどう変わってゆくのか、
ということが対談で取り上げられているテーマなのだ。

面白いなぁ、と思ったのは僕と同世代の梅田氏よりも、ずっと若い平野氏の感性の
ほうが僕にはしっくりくる、ということ。一言で言うと、梅田氏はより人間の善意
を信じるリベラリストであり、今のネット社会の進化の方向に対してよりポジティブ
でリアル社会を補完してくれる人間にとって良きもの、と捉えている。
平野氏の見方はより内面的で、完全にリベラルな空間というものにも、人間の善性
というものにも疑問を持っており、ネット社会がリアル社会や人間に及ぼす影響に
ついても不安な部分を抱えている。
こういう根本的な違い(それは社会とか人間そのものを見るときの視線の違いでも
ある)をベースとした対談はなかなかスリリングでかつ興味深かった。
特に平野氏の発言にいくつか面白い部分があったので抜き書きしたい。

【引用始まり】 ---
リアル社会で自己実現できていないとか、自分の言いたいことを自由に
言えないとか、そういう不満の結果として、匿名で、ネットの中に思いを
吐き出している人たちもいる。
彼らには、リアル社会とネット社会という二分法があって、その境界線が
主体の内側に内在化されている。
前方に一つのリアルな世界が開かれ、後ろ側にももう一つ別の世界が開けて
いる。その結節点に、主体が形成されているんじゃないかという印象なんです。

僕はずっと個人に注目してしゃべっていますが、個人がそうした状況に
陥っているのは、結局のところ、先ほどお話ししたように、リアル社会に
本音を語る十分な場所や時間がないし、それを許す雰囲気がないからなん
でしょう。
【引用終わり】 ---

これはまさに僕も含めて匿名でブログを書いている人達の多くに当たっている
見方だと思う。しかし、実を言うと平野氏はこの事実をポジティブには受け
とめていない。この本ではこれ以上突っ込まれないが「大きな問題」と受け
とめているのだ。
さらに、この次の指摘も鋭いところを突いている。

【引用始まり】 ---
僕は今あえて、先ほどの話にあったようにリアル世界に対して不満を抱えて
いて、あんまりハッピーでもない気分でブログや書き込みをしている人達に
特化して考えているんですが、彼らがネット世界である種の癒しを得て、
満たされることがあればあるほどリアル社会に対する彼らのパワーは収斂
されることなく霧散していくんじゃないかという気がするんです。
【引用終わり】 ---

なるほど、ある種の癒しを得てパワーが霧散する、というのも頷ける部分がある。
結局、僕にしても他の匿名で書いている人達も、リアル社会がこのような本音を
表明する自分をポジティブに受けいれてくれないだろう、というある種のネガ
ティブな予測に立って意見表明をしていることも否定できない。
平野氏はこの「匿名でネット上で自らの意見を表明する」という行為についても
相当にネガティブな意見を持っている。

先程挙げた個人の内面がネットとリアルによって二分されてゆくことを問題視
する視点と併せて、平野氏の意見は非常に興味深くかつ非常に面白いので、稿を
改めて別の記事で取り上げたいと思っています。
お待ちの間、江島健太郎氏と平野氏本人とのこのサブジェクトについての深い
議論をどうぞご一読下さい。
読み応えがあります(笑)

平野氏からのコメントへの返信

すっかり話がずれてしまいました。
ウェブ人間論」に戻ります。
次も非常に面白いです。

【引用始まり】 ---
何かをして世界に自分の影響を及ぼそうとするのか、あるいは言葉として
自分を記録するのか、というがあると思いますが、ただ、言葉というのは、
梅田さんも今言われたように、僕もいつも感じるのですが、それを使って
しか自分を表現できないわけですけど、そのせいで自分が規定されてしまう
というジレンマが必ずあるように思います。
俺は肉が好きだ、と宣言すると、本当は魚もちょっと好きで、野菜ばっかり
食べたいときもあるというような微妙な揺らぎがみんな押しつぶされてしまう。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
だから独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていう
のは、分かるんですけど、正しくないと思うんです、やっぱり。
ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの
中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所
であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見
言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在していない
んでしょう。
それが自分だというのは、一種の錯覚的な核心であるにも拘わらず、それに
規定されてしまう。
【引用終わり】 ---

この二つの指摘もまさに正鵠を射ていると思う。
ネットの世界の人格は基本的に「言葉」で作り上げるもので、言葉は放った
瞬間からその人格を規定するものとして働く。逆にその機能を利用して「なり
たい自分を規定するための道具にする」という戦略もあり得るのだが。

平野氏が指摘するように「ある人がどんな人かということは、他者とのコミュ
ニケーションの中でどういう言動が出来るか」である、ということ。
社会から切り離された「本当の自分」などというものはどこにも実在しておらず、
「自分」とは結局、他者との関係性によってのみ立ち上がり、規定されるもの
であるという事実。
これらが十分了解されないままで「個人の内面がネットとリアルによって二分
されてゆく」と「本当の自分はネットの自分」「リアルの自分は仮の姿」と
安易に考えてしまうことも起こりえる。
ここに平野氏の危惧の中核がある。

いささか脈絡なく紹介してきたけれど、ネットでの人間、個人、内面のあり方、
そしてリアル社会との関わりについて、ここまで刺激的で深い議論は不勉強に
して僕は知らなかった。
久しぶりに正面から考えるべきサブジェクトに出会えてとても嬉しい。
上記したとおり、これについてはいずれ稿を改めて私見を述べたいと思います。

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)