風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

匿名は悪?(2)

前の記事からの続きです)

続いて平野氏の危惧の2)について。
これは僕には全く想像できなかった素晴らしく鋭い視点だと思う。
確かに平野氏が言うように、主体の分裂が日常性からの乖離と他者からの理解
可能性を薄めてゆく可能性は否定できないと思う。
ひょっとしたら匿名でこのブログを書いている僕も、実名で会社の人や友人や
家族にこのブログを読んでもらうことで、より深いコミュニケーションの契機
を作り出し、より深く分かり合えるかもしれない。

と、こう書いたところで「それは絶対嫌だ!」という気持ちが湧き起こる(笑)
なぜ、どうして、嫌なのだろう?
まず第一に、会社の人やリアルの友人にそこまで深い内面を晒したくない、という
思いがある。つまり、有り体に正直に言えば、彼らとは「そういうつき合い」を
日常求めていない、ということだ。
そしてまた、万一、タイミングと場を間違えると僕が考えていることをポジティブ
に受け止めて貰えない可能性があり、逆に辛気くさいヤツ、とネガティブに受け
取られる可能性のほうが大きい、と自分が考えていることに気がつく。
つまり、匿名を解除することはリアル世界において損失をもたらすリスクがある、
ということだ。

家族についてはどうだろう?
彼らとはリアル世界の会話において、ブログ以上に深い話をすることだってある。
しかし、それはある契機、あるタイミングにおいてであって、常時深い話をして
いるわけではない。そうすることは日常において「重すぎる」のだ。

これらの理由を考えると、どっちの場合も結局、僕は彼らと本音を話すことに
ついては、タイミングと場を重要視していることに気づいた。ブログで文字で
書く、ということはリアルの彼らに対して、そのタイミングと場と話の深さを
自分でコントロールできないことになる。
それが嫌なのだ。
だから僕がもし、このブログを実名で書くとしたら内容はここまで深くはしない
だろう。そしてもっと「辛気くさくない」内容も増やすだろうと思う。
そう、僕という人間にはもっとlightで明るいお茶目な面もあるんだよ、とアピ
ールする為に(笑)
僕にとっては、自分がこの深さの記事を書くことの大前提は「匿名にすること」
だったのだ。

結局、ネットという手段を得るまで、個人がここまで自分の内面と思考を他者に
際限なく吐露する方法はなかったのだと気づく。それを「本当の自分」と思う
かどうかは別にして、これまでは、利害関係のない親友なり、家族なりのごく
ごく限られた人達に、ある局面において、あるタイミングで内面を伝えるだけ
だったのだ。つまり、これまでの人類の歴史において、個の内面と思考を文字
によって固定化し『常時周囲に発信する』手法など存在したことがなかったのだ。
いやはや、『常時』というのは照れくさいものである。(笑)。

最後に平野氏の危惧のもう一つの側面「日常生活の希薄化」について僕の考えを
述べておく。これは1)の危惧とも絡んでいて、匿名でネットにおいて「本当の
自分」として発言し続けることによって、リアル社会から軸足がネット側にずれ、
日常生活がおろそかになり希薄になるのでは?という危惧だ。
これはまさに個人のバランス感覚によると思う。

平野氏が言うように「ネットの自分こそ本当の自分」などと考えていたとしたら、
それはその人がバランスを狂わせる第一歩だ。前の記事で書いたとおり、人格と
いうのは他者との関係性においてのみ立ち上がり、規定されるものなのだから。
ただし僕は「匿名のネット上の人格も自分の一部ではある」と言う権利は留保
しておきたい。作家が小説を書くことで自らの複数性、複雑性を表現することで
救われるように、匿名であっても表現することによって救われる部分はやはり
あるのだ。あるいはネットに書かずとも、自分のノートに私的に書く日記でも
同じだ。手書きの日記帳に書かれた人格も間違いなく自分の一部ではあるのだ。
正直なところ、リアル社会からの逃げ場としてのネットという点については、
僕はどちらかと言えば肯定的だ。ネットという場があることによって、リアル
社会の苦悩に起因する鬱病や自殺から救われた人だってずいぶんいるだろうから。

とはいうものの、ひとはずっとネットの住人であり続けることはできず、いつか
リアル社会と接点を持ち、そこに立ちむかい、そこで生きてゆくしかない。
ネットの中で、ひとは自由に強制や義務や嫌なことと関わらずに存在することも
できる。その事実こそが、ネットには『実人生』はないことを示している。
結局、ネットは「つかの間の休息の場」であって「生きる場所」ではないのだ。
その事実を忘れず、バランス感覚を保っていられれば、匿名であっても実名で
あっても、ネットは人生において有用な場であるに違いないと思う。