風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

死の家の記録

読み終えた後、後を引く本、というのがある。
僕にとってドストエフスキーの「死の家の記録」はまさにそんな一冊だった。
この本はシベリヤで流刑生活を送った男ゴリャンチコフが書き遺した手記という形
で、ドストエフスキー自身の四年間に渡るシベリヤでの囚人たちとの監獄生活と
囚人群像を書きつづった物語であるので半ばドキュメンタリー作品と言ってもよい。

ここでドストエフスキーは、非常に興味深い二つのことについて書き記している。
一つは極悪人と呼ばれるような悪の化身のような犯罪者でも優しい人間らしい
気持ちをどこかに持っていること。そして、一見まともそうに見える模範囚や官吏、
軍人のような一般人もそのどこかに悪臭を放つ犯罪者としての一面を持っている
ことだ。獄中には貴族階級や革命分子のようないわゆる知的生活者も含まれていた
のだが、このような事実に気づかずに犯罪者は犯罪者、というレッテル張りをして
一様に見る人たちもまた多かったということが活写されている。

これは人ごとではない。
我々自身でも「若者は○○だ」とか「おじさんは○○だ」とか十把一絡げにして
レッテルを貼って分類し、自分とは無関係の「理解できない存在」として憎んだり
さげすんだりすることがいかに多いことか!
それとまったく同じことが監獄の中でも行われていたことが詳細につづられている。
そしてもう一つ、非常に興味深かったのは貴族階級のこの主人公はいかに親しみを
感じる関係であっても、決して民衆たちから「仲間」とはみなされなかった、と
いうことだ。そしてこの本の中で主人公はそれが「何よりも辛いことだった」と
記している。
これもまた深い人間観察の結果だと思う。
いくら親しくなっても、どうしても乗り越えられない壁はやはり「レッテル」その
ものにある、という冷然とした動かせないリアルな事実。
ドストエフスキーはこの書では、決してロマンチシズムに酔ったり、理想主義を
歌い上げたりせず、冷静に事実を観察し、記述し続けるのだ。

それにしても、この書に登場する囚人群像の凄さ!
この本を読み終えた時、僕の目の前に浮かんでいたのはミケランジェロやレオナル
ド・ダ・ヴィンチの残した数多くの「習作」だった。
囚人たちそれぞれが荒々しい木炭スケッチで描かれた男性の裸形のよう。
この詳細かつ深い人間観察こそが後の数々の名作「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟
「悪霊」「白痴」の登場人物となって結実したのは間違いない。
こういう極限体験を経てドストエフスキーは人間の真相を見抜く目を持つようになった
のだろう。
とにかく凄い作品である。

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)