風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

柴田翔「されど、われらが日々」

高校時代に没頭して繰り返し読んだ小説です。
ずいぶん久しぶりに読み返してみると、いい言葉、考えさせられる言葉がたくさん
ある。柴田翔の名前は最近聞かないけれども、この小説の持つ叙情性は永遠なの
ではないだろうか。独特の理屈っぽさや言い回しも。
今日は特に感想は書かず、部分部分を抜き書きします。

【引用始まり】 ---
その間、恋をしなかったと言えば、嘘になろう。
そして恋する時、私は大体真面目だった。だが、私が真面目であればある程、
私の恋は、いつも、真面目な恋とはならずに、情事といったようなものに
なって行った。ある時期には、私は自分の情事を、これは情事ではない、
本当の恋なんだ、と思い込もうとし、またある程度思い込みもした。
だが、女の子たちは、私が彼女たちのことを、決して本当には愛していないこと、
愛することのできないことを敏感に感じ取り、私から離れて行った。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
ぼくは思うんだけど、幸福には幾種類かあるんで、人間はそこから自分の身に
合った幸福を選ばなければならない。間違った幸福を掴むと、それは手の中で
忽ち不幸に変わってしまう。いや、もっと正確に言うと、不幸が幾種類かある
んだね、きっと。そして、人間はそこから自分の身に合った不幸を選ばなければ
いけないのだよ。
本当に身に合った不幸を選べば、それはあまりよく身によりそい、なれ親しんで
くるので、しまいには、幸福と見分けがつかなくなるんだよ。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
ぼくはさっきヴァジニティ(処女性)のことをいいましたが、下らないことに
こだわると思われたかも知れない。でも、それを下らないと考えるのは、人間
であることのおそろしさを知らないからです。一度でもそういう可能性を知った
ら、結婚している相手以外にも異性はいるのだと知ったら、男にせよ、女にせよ、
貞節でいられるものではありません。
男女七歳にして席を同じゅうせず、と言った昔の人は、人間について、本当に
考えぬいていたのです。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
そうした関係が情事と呼ばるべきか、恋愛と呼ばるべきか、私は知らない。
だが、それらの相手との間に、またフィジカルな関係はなかった女の子との間に、
そしてまた、そうしたことを知る以前につきあっていた女の子との間にも、それ
なりの激しい感情のやりとりがなかったわけではない。それは、おそらく、恋に
とてもよく似ていたと思う。あるいは、恋そのものだったかも知れない。
そして、そうした激しい感情が、芝生の緑の萌える駒場の構内を歩く私の空虚を、
充たし、補うかにみえたこともあった。

 しかし、その激しさは、空虚を支えはしなかった。その激しさは、空虚と何の
差し支えもなく併存し、間もなく消滅した。その激しさはそうした質のもので
あった。それを私はすぐ知った。別の言葉で言えば、私は激しい感情の中にあり
ながら、それが自分を全的には充たしはしないこと、その激しさは永遠に続く
空虚という遊戯の中の中休み、子供の言う「たんま」に過ぎないのだということ
を、はじめから知っていた。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
節子は、おそらく私がはじめて本当に節子を必要とした時、私から離れて行った。
節子があの事故に遭ったあと、私ははじめて、自分がもう一人で生きることに
堪えられないのに気づいた。かつては誰とも自分を決定的に結びつけないことに、
ひそかな自由を誇ってさえいた私だったが、年をとったと言うには、あまりに
若い年齢だが、やはり年をとったのだろう。
私たちの世代は、きっと老いやすい世代なのだ、
その老い方は様々であるとしても。
【引用終わり】 ---

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫)

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