風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

裏切りによってしか距離がとれないときがある。

河合隼雄の「こころの処方箋」の中の一章。
ここでは「裏切り」の意味が取り上げられている。
河合の挙げている例を紹介する。

二人の文学を志す青年が親友になる。
お互い励まし合って同人誌を出したり、小説を投稿したりしたけれどどうにも
うだつがあがらない。とうとう一人が文学を諦めて社会人になり結婚もするのだが、
もう一人は文学を諦めきれず友人の世話にもなりながら作家活動を続ける。
そんなある日、文学青年の書いた小説が入選するのだが、その内容たるや、
親友夫婦を現実を歪曲して俗人の典型として小説のモデルとして取り上げて
書いたものだった。
当然、モデルにされた青年は激怒して長年の友情は終わってしまった。


この例について、河合は以下のように述べている。

どうしてこんなことが生じたのだろう。
二人の友情は「同一化」と呼んでいい状態にあった。
まさに一心同体であった。
一人が文学を放棄した頃から、二人の間に少しずつ自分なりの個人の道を歩む
姿勢ができはじめたが、それでも感情的な一体感は続いていた。そしてお互いが
相手を理想化してみたり、急に卑小化してみたり、どこまでが自分でどこまでが
相手かわからない状態になっていた。こんなときに、「裏切り」が生じるのだ。
一心同体の存在を真二つに切り裂くには、血を流す荒療治が行われる。
それが「裏切り」である。
 純粋にひたすら傾倒する者とされる者との間でもこのようなことは生じる。
師弟、夫婦、先輩と後輩、などの間に生じる「裏切り」は、もちろん、その他
の意味において起きることもあるが、同一化の破壊的な解消の意味をもって
いることがある。

最近、僕の近くでも長年、同一化に近い友情をはぐくんできだ二人の友人がこれに
近い状況に至る出来事があった。これとて裏切ったほうも自分の非も重々わかって
おり、裏切られたほうも、何故あんなに心優しく思いやりのある友人が突然そんな
行動に出たのか理解できないでいる。
それなら簡単に仲直りなどできるはずだ、と思われるでしょうが、もしも「二人の
同一性の解消」がこの行為の深い意味ならばそう簡単ではないだろう。

人間の心とは、まことに不可思議なものだ。
「裏切り」においては何をおいても「相手から離れること」を自己が必要としている。
理性的で意志的な自我の部分は首をひねりながらも何故か破壊的な行動に出て
しまうのは、無意識の奥底で、相手との同一性を破壊し自分の足で立って歩きたい、
という自己の悲鳴に近い願望の現れなのかもしれない。

河合も述べているように、多くの偉人伝においても「裏切り」がなされたことが
書かれており、その「裏切り」の傷を抱え見つめることでその人がさらに一回り
大きくなる例が見られる。それはまさに「裏切り」という代償を払って心の独立を
勝ち取り、人間として成長する、という構図だと思う。
だからといって勿論、裏切りが社会的に許されるわけもないのだが。

さて、「裏切り」のあった後、当人たちに関係修復の可能性があるや否や、だ。
河合は「きわめて難しいが、稀にそういう例はないわけではない。その場合、お互いが
心から血を流しながらその深い意味を知ってゆくことで、関係を取り戻すこともあり
うる」としている。僕はさらに補足したいのだが、それにはおそらく長い長い時間が
必要だろう、ということだ。
僕はこの友人たちにこの言葉を贈りたいと思っている。

『待て!しかして希望せよ!』(「モンテ・クリスト伯」より)

こころの処方箋 (新潮文庫)

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