風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

エロスの行方

柏倉 葵さんがブログで触れられていた河合隼雄の「中年クライシス」。
この本に「エロスの行方」という面白い一章がある。
題材として円地文子の『妖』を取り上げているのだけれど、本題に入る前に冒頭で述べ
られている河合のエロス論が面白いのだ。

ギリシャ神話において、初期のころには、エロスは擬人化されず、人を襲う
激しい肉体的な欲求、心身を慄わせ、萎えさせる恐るべき力とされていた。
それは形を持たない力であった。
エロスの力は合一を求める。
人間はあくまで「個」として、自分を他と区別した存在であることを認めたい
と望む半面、他の存在との合一・融合を求めたいという欲求ももっている。
エロスはそのような合一の欲求や衝動を示すものである。
エロスを擬人化しなかっったギリシャ人は、それが「人間的」な相手では
ないと思ったのではないだろうか。
話し合いで解決がついたりはしない。
それは自然現象の洪水や山崩れのように「抗し難い力」として出現してくる。

ご承知の通り、人間の理性でエロスをコントロールしようとせんがために、その後
ギリシャ神話ではエロスは羽根の生えた男性神の形で登場することになる。
以後、人間は不可解で理性の力で抗しがたいエロスをなんとかコントロールしようと
四苦八苦してきた、といってもいいだろう(ほとんどの恋愛がまさにそうであるように)。
歳をとったからといってエロスは尽きることはなく、形を変えて人生のいろいろな
局面で唐突に浮き上がってくる。それは河合による『妖』の分析にある通り、
単純な男女関係を対象にするとは限らず、代替品として子供やペットや収集物に
向けられることもあるのだ。

河合はまた、こうも言う。

ともに「わける」ことを意味する分と別という
字を組み合わせてつくってある。
分別とエロスは敵対関係にある。
分別の強すぎる人は、エロスをおさえこもうとする(もっとも、そんなことは
不可能であることは後で述べる)。
エロスの強すぎる人は分別がなくなってしまう。
青年期ならともかく、中年になると、いかにして自分を超える物としてエロスを
体験しつつ、自分という分別をなくしてしまわずにいるか、という課題に取り
組むことになる。

変な話だけれど、僕はこの言葉を読んで治水工事を想像した。
人は自然を完全に造りかえるようなそんな力は持っていない。しかし決壊しやすい堤防を
補強したり、道筋を少しだけ人の住む場所から遠ざけたり程度はできる。
川という自然の大いなる力には敬意を払いつつも、川の「いいなり」にはならないよう
にすることはできるのだ。

エロスの力を軽視してはならない。
理性の力を過信してもいけない。

人間の理性など、DNAに組み込まれた原初の本能に根ざす力の前ではひとたまりも
ないのだ。人は自分がその力に直面した時はじめて呆然と立ちつくすことになる。
人間にできることは所詮、エロスという大河は氾濫しやすいことを知り、精一杯
治水工事をすることかもしれない。

中年クライシス (朝日文芸文庫)

中年クライシス (朝日文芸文庫)