風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

徒然草

ブログの世界でも「つれづれ」とか「徒然なるままに」という表現や表題はよく見かける
けれども、元祖『徒然草』は相当に辛口で面白い。
吉田兼好の恐るべき社会・人物観察力に舌を巻くばかりだ。
たとえば、社会に生きる愚かな人たちの描写はこう。

蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る。
高きあり、賤しきあり。
老いたるあり、若きあり。
行く所あり、帰る家あり。
夕べに寝ねて、朝に起く。
いとなむ所何事ぞや。
生をむさぼり、利を求めて止む時なし。
(72段)

世にしたがへば、心、外の塵に奪はれて惑ひやすく、
人に交れば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。
人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。
その事定まれる事なし。
分別みだりに起りて、得失止む時なし。
惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。
走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし
(75段)

どうです?現代社会に生きる人々と何一つ変わらない。
「惑ひの上に酔へり。酔の中に夢をなす。」など辛辣ではあるが、現代社会そのままでとてもリアルだ。さて、こちらはどうでしょう?

【引用始まり】 ---
賢しげなる人も、人の上をのみはかりて、己をば知らざるなり。
我を知らずして、他を知るという理あるべからず。
されば、己を知るを、物知れる人といふべし。
形醜けれども知らず、
心の愚かなるも知らず、
芸の拙きをも知らず、
身の数ならぬをも知らず、
年の老いぬるをも知らず、
病の冒すをも知らず、
死の近き事をも知らず、
行ふ道の至らざるをも知らず、
身の上の非を知らねば、まして他の譏りを知らず
(134段)
【引用終わり】 ---

自分の欠点を自分で認識できない人間が他者の欠点を知り得ることなどあり得ない、
自分を客観的に見る目を持たないのは実に愚かなことだ、と言っている。
至言ですね。

最近、カエサル(シーザー)の書いた『ガリア戦記(←驚異的に美しい文章です。カエサルの筆力、知性、洞察力に脱帽)』を人から頂いて読みかかっているのだが、古典を読んでいてつくづく痛感するのは
 『何百年経っても、何千年経っても、結局、人間の中身は変わっていない』
ということだ。

だからこそ、先達の文章を読むことは今でも大きな意味があるのだ、と思う。

新訂 徒然草 (岩波文庫)

新訂 徒然草 (岩波文庫)