風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ネットと心の内面

あづみさん記事で興味を持って読み始めた本「ニートって言うな!」が面白い。
(ちょうどあづみさんも昨日新たに詳細な感想をアップされました ^^ )
ニートの実状をめぐるまやかし、マスメディアの妄言などについては記事を
改めて書きたいと思っているけれど、今日は本論からはずれてこの本の第二章
内藤朝雄氏が書いているネットコミュニケーションについての部分が非常に
面白かったので少し触れてみたいと思う。
まずは長くなるが引用してみたい。

【引用始まり】 ---
たしかにインターネットには、現実感覚の諧調を狂わせるような奇妙な作用が
あります。人は独りで自己や他者のイメージをいじくりながら、さまざまな
憎悪や欲望や不安に淫する「内面」と呼ばれる空間をもっています。
通常それは公的あるいは社交的なコミュニケーションの場からは遠く離されて
いるものですが、インターネットではこの「内面」がそのまま唐突に露出し
がちです。

例えば、普通に生身の関係であれば「今日、ちょっと飲みに行かないか」
から始まって、飲んでいる席で、世間話を交わしたうえで、「じつは女房
に離婚するとか言われちゃって、困ってるんだよ(・・・に始まって、これ
までの人生物語を、くどくどくどくど・・・)」というふうに、段階を経て
内面の語りが始まるものなのですが、インターネットというのは、そういっ
た前段をとびこえて、一瞬に内面に入ってしまうのです。
(中略)
インターネットの場合、そういう内面、もっとも奥深くにあるといわれている
内面 −じつは薄っぺらなものでもあるのですが− や情熱を、他人と一気に
距離ゼロのところで露出してしまうわけです。そして露出した人間同士が、
距離ゼロのところで、自分の内面を張り合わせ続けるようなところがあります。
そうすると、普段の生身のコミュニケーションでは出ないようなところが出て
しまう、というのは確かにあることです。

このメカニズムによって、ネット上に独特の歪んだコミュニケーションが生じる
ことはあります。非常に下品なものも出てくる理由です。
しかし、面識がない者との文字だけのコミュニケーションは、それだけでは重大
な結果をもたらすほどの影響力は持ちません。ほとんどの場合、匿名掲示板など
で見知らぬ者と泥仕合になった後、うんざりしておしまいになります。
【引用終わり】 ---

どうでしょう?
この部分、非常に鋭くネットコミュニケーションの勘所を突いていると僕は
思うのだが。

これまで僕が知る限り、ネットにおいて人の内面同士が容易に裸で向き合える
ことは『良いこと』と捉えられることが多かったように感じる。
それは「普段リアルの人には話せない本音が話せる」と同義であったり「ネット
友には心を開きやすい」と言われたりする部分だ。そんな中、人の内面同士が
距離ゼロで容易に向かい合えることの危うさ、そしてその「内面」は実のところ
「もっとも奥深くにあると思われているが、実は『薄っぺらなもの』」と喝破
した内藤氏は本当に鋭いと思う。

ここで「友情」について考えてみよう。
ネットが存在する前、人が他者に深い内面をさらけ出すことは今より難しく、
それは内藤氏が言うように多くの段階や時間を経て、お互いの信頼関係を確かめ
値踏みした相手になされるものだった。
僕たちはどうしても人に言えないような内面を「家族」なり「親友」なりにだけ
うち明けたものだったが、それは「内面をうち明ける」から「親友」であった
わけではなく、「友情」や「愛情」は既に築き上げて存在していたからこそ
「内面をうち明ける」ことができたのだと思う。
そして、これらのリアルな「愛情」や「友情」は、ある部分では、以前僕が
記事「ネットの交友、リアルの交友」で書いたように、リアルな自分を
「担保」に差し出してはじめて得られるものだったのだ。

僕はネットでは親友などできるわけがない、と言っているわけではない。
ただ、ネットでは「内面をさらけ出しあっているが故に『我々には友情がある』
とか『愛情がある』と勘違いしているケースが多いのではないか?」と思うのだ。
それは本末転倒している、と思う。
責任も担保もない状況では、匿名にしてリスクヘッジさえすれば人は容易に内面
をさらけ出せるのだ。

とはいえ、実のところ、そう勘違いしていたからといってさしたる問題が起こる
わけでもない。なぜなら勘違いの顛末は内藤氏が書いている通り、

【引用始まり】 ---
しかし、面識がない者との文字だけのコミュニケーションは、それだけでは重大
な結果をもたらすほどの影響力は持ちません。ほとんどの場合(中略)泥仕合
なった後、うんざりしておしまいになります。
【引用終わり】 ---

であるからだ。
よく聞く話ではないでしょうか?

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話は変わる。
僕は最近、己れの内面をそのまま垂れ流すような記事はできるだけ書くまいと思い
実行しようとしている。
それは読者の皆様にとっては若干つまらないことかもしれない(苦笑)
しかし、僕はどんな「内面」も一旦理性のフィルターを通し、普遍性という枠の中
で組み立て直してからでないと、もう人の目に触れる文章は書きたくない。

それが、今の僕の生きる姿勢であり、矜持であり、美学なのだ。