風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ファンタスム −「知の論理」より

以前紹介した「知の論理」から、今日は石光康夫氏の「精神分析とファン
タスム」を取り上げたい。
さて、ファンタスムとは何か?
ここではファンタスムとは「ある特定の思いこみの体系」と説明されている。

挙げられている例で説明してみよう。
羊たちの沈黙」という映画、ご存じでしょうか?
この映画では、女性捜査官クラリスが、若い女性を殺しては皮膚を剥いで
ゆく連続殺人犯を追うのだが、どうしても犯人の殺人の動機を知りたくて、
自身も殺人犯である禁固中の精神病医レクター博士(人喰いレクター)と
会話するシーンがある。

レクター博士が逆にクラリスに、犯人はどんな欲望を満たそうとしている
と思う?と聞くと、クラリスは「怒り、社会に対する反感、性的欲求不満」
と答えるのだが、レクターは即座に違う、と言い切る。
他者の身体に噛みつき、引き裂き、内蔵を喰らうという「ファンタスム」
に自ら取り付かれているレクターは、クラリスが挙げるようなあまりにも
凡庸で常識的な根拠によるものではないことを指摘するのだ。

この作品での犯人の欲しいものは「女性の皮膚」だ。
文字通り、皮膚が欲しくて女性を殺しているのだ。そして皮膚の各部分を
集めて縫い合わせてそれを被ることで、犯人は自分をおおっている皮膚
から自我が溶けだしてしまうのを防ぎたいのだ。
これこそが、この犯人のもつファンタスムだった。

このように、ファンタスムは「ある体系」ではあるけれども、論理化でき
ない性質のものだ。ファンタスムとは、それにとらえられている人にとって
は言葉に還元できないような、身体のすべてを挙げて何度も体験しなおさね
ばすまないような、徹頭徹尾身体的な欲望なのだ。

ファンタスムとは語源的にファンタジーと同じ言葉なのですが、ふわふわ
不定形に漂う感情のようなものではありません。それはすでにみたあの
無意識の表象に媒介されて、普段は「現実」に沿って統合されていると
思いこんでいるわれわれの知覚の表層へと、奇怪な形を伴いつつたえず
浸みだしてきて、身体や知覚を攪乱するものなのです。
この表象体系は、ところがまた、われわれがおいしいものを食べたとき、
美しいものを身にまとったときに身を貫くのを感じるあの無償の歓喜
ように、あるいは人を好きになるときに働く当人にも不可解きわまりない
恋愛感情のように、何の意味も根拠もないものでもあるのです。
なぜうれしいのか、なぜ好きなのかと聞かれても、理論だてて答えられは
しません。

このファンタスムという、訳の分からない論理で捉えられない無意識の表象
の体系と直面したフロイトは、臨床医として論理を捨てて「自由連想法」と
いうほとんど(人喰いレクターの)「勘」に近いような方法で分析を試み
ようとする。しかし、フロイトにはもう一つの顔もあった。それは常識的で
論理的なクラリスのように、このファンタスムを論理化し、夢判断やエディ
プス・コンプレックス論のような「解読装置」を作り出そうとしたのだ。
決して理論付けなど不可能なファンタスムを、論理の世界で閉じこめようと
しつつ、一方では臨床的に勘の世界で対応をしようとするフロイト
その試みは、実に危うい橋を渡る賭けであるのだけれど、これこそが知の
本質を指し示している、と石光氏は言う。

論理によらないファンタスムを過小評価するのも間違っているけれども、
ファンタスムのリアリティを奪う論理を過小評価するもの健全ではあり
ません。ですから精神分析が明らかにした表象の論理=知は、危ういバラ
ンスの上でしか成立しないのです。

何事かを論理化することは、事象のリアリティを奪い、事象そのものを
矮小化する危険を秘めているのだが、そもそも、知を他者と共有できる
ようにする為には避けられない道なのだ。なぜなら知とは個別例の列挙
ではなく、論理化によって取り出された普遍性こそ本質なのだから。
しかしながら「論理化すること」と「事象を理解すること」や「問題を
解決すること」は全く別のことであることを、このエピソードは語って
いる。

知は、事象の論理化という操作によって人々に広く共有できるものになる
のだけれど、その普遍性が故に到達できる範囲には限界があるのだ。
これこそ「知の限界」と言えないだろうか?