風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

生活をシンプルに(複雑さを受け止めることを部分的に断念することについて)

愛読しているブログが2つあって、ひとつはベンチャー企業の研究者のブログ。
ひたすら食べたものと変化の少ない日々(天候、飼い猫、および読んだ本)に
ついて、短く書いているものだが、この人がいかにシンプルですっきりした生活
を求めてそれを実行しているかわかる(といってもご本人は飄々として肩の
力の全く入らない文章を書いておられるのだが)。

もうひとつは、会社役員をされていてごく最近、退任された方のブログ。
こちらも、天候、奥様との日常、読んだ本と趣味のジョギングやオーディオのこと
などを書いておられるが、この方もシンプルな生活を大切にして過ごしておられる。
どちらの方も、お金とは関係なしに(と言っても後者の方は明らかにお金持ちだ)、
自分が大切と感じるものを大切にし、それ以外のことは、そぎ落とした生活を
されておられる。何より感心するのはお二人の「シンプルな生活」には、わざと
らしさがなく、ごく自然にそうしている様子が文章のうまさも相まって、実によく
伝わってくるのだ。僕はいつもこの2つのブログを読むと、ほっとし、背筋が
すっと伸び、自分が本当に求めているのはこういう生活なのだ、と再確認する。

常にそうだけれど、ひとは本音の部分で自分がなりたいと憧れたり、夢に見る
存在に近づいてゆく。ヤクザのような無頼になりたいと本音で憧れているひとは
ヤクザっぽくなるし(本物にはなれなくても)、社会的権力に憧れる人は、権力関係
を操る場に(それが例えば町内会の会長であったとしても)誘蛾灯に引き寄せられ
る蛾のように近づく。女優になりたいと思い続けている女性は「女優っぽい立場」
に身を置くチャンスを見逃さないだろう。
それと同じで、僕はもう数年、この2つのブログを読み、彼らの世界に憧れを持ち
続けている。

これまで僕は出来る限り、自分をオープンに保ち、チャンネルを世界に開いて
生きようと努力してきた。しかし今年から僕はいくつかのチャンネルについては
「閉じる」ことを決断し、実行に移している。
僕はかって、ここで書いたように、「複雑さを抱えて生きる」ことを信条とし、
それに向けて努力を続けてきた。
しかし、今回の決断は、それを部分的に放棄したことになる。

世界をオープンに保つことは、雑音が限りなく入り、シンプルさから遠くなることだ。
それは曖昧で、美しくなく、泥水の中でもがき続けることでもある。
それに疲れたわけではない。
疲れたわけではないが、やはり僕は、どうしても、美しく生きたい。
だから「もういい」と決めたフィールドについては、チャンネルを閉じる。
閉じることで世界のある部分を失い、固定化し、頭の中を更新しなくなるが、
それでいいのだ、と思う。

例えば、僕は仕事上である部分についてのフレキシビリティを放棄することに
決めた。よってこのフィールドにおいては、僕は悩んだりせず自動的にルーチン
的に反応する。
これで仕事のある部分のオペレーションはシンプルにできる。
日常生活もそうだ。
ある部分の事柄については、僕は情報を更新しないし、判断は自動化する。
その部分について、僕の思考はシンプルになる。

「美しく生きたい」「自分の憧れている生活に近づきたい」という欲求は実に
強いのだ。
しかし、それだけが理由ではない。
もうひとつには、今の自分が置かれている状況がある。
仕事に全精力の90%以上を注ぎながら、残りの10%の部分をどう生きるか。
その残り10%にはあらゆる世俗的な問題(両親の加齢やその他もろもろの
俗事)が含まれている。
今の僕には、現実の複雑さを全て受け止めつつ、美しく生きる力と余裕が
ないのだ。

これは、加齢であり、撤退であり、諦念であり、頭が固くなるということなの
だろうか。「美しく生きる」ためには、僕の究極の目標である「少しでもマシな
人間になる」ことを部分的に放棄せざるを得ないかもしれないだが、余裕が
なくて世界の複雑さを受け止めて処理しきれないのであれば、マシになり
ようもないのは確かだ。
僕に限らず、ひとは誰もが「おしまい」に向かって歩いている。
「おしまい」が見えてきつつある年齢であるからこそ、ある部分は諦めざる
を得ないし、諦めようと思っている。
これは生き方の上での妥協なのだろうか?