風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

アテネの没落に思うこと

ヘーゲルの『歴史哲学講義』を読んでいるのだけれど、下巻に入って内容が非常に
面白くなってきた。その中に自分自身の身に引き写して、なるほどと思える部分が
あったのでここに書いておきたい。

古代ギリシャ都市国家アテネがどうして繁栄から没落の道をたどったのか。
その一因としてヘーゲルソフィストソクラテスの思考を挙げている。
ヘーゲルによれば、ソフィストたちが出現するまでのアテネ市民は観念的な思考
に囚われることなく、市民の思考は共同体に密接に関わる実践的な事柄に向けら
れていた。

【引用始まり】 ---
ギリシャ人にとっての具体的な生活とは、一般的な思考を経ることのない素朴
な共同体生活、つまり、宗教や国家のためにつくす生活であって、一般的な
思考(ここでは観念的な思考の意味:away注)がはたらきはじめると、これは
ただちに具体的な生活形態から逸脱し、これと対立するものになるからです
【引用終わり】 ---

ところがソフィストたちによって、人間を共同体とは切り離されたもっぱら主観的
な存在として捉える見方が導入される。

【引用始まり】 ---
ソフィストの考える人間はまったく主観的な人間であって、かれらの言い分に
よると、自分の好悪こそが正不正の原理であり、自分に有益かどうかが最終的
な判断の基準になるのです。こうした詭弁はどんな時代にも形を変えてあらわ
れてくるもので、正不正にかんする主観的な思いこみや感情を判断の根拠と
見なす考えは、わたしたちのまわりにもないわけではありません。
【引用終わり】 ---

このソフィスト的考え方については、ヘーゲルは以下のように「わたしたちの
まわりにもないわけではない」と言っているが、現代日本ではむしろ支配的な
ものの考え方と言っていい。
さて、ヘーゲルは一方でソフィスト同様に、ソクラテスの思考もアテネの堕落
(没落と言うべきか?)の一因と断じている。ソクラテスソフィストたちの
詭弁を排し、人間は正義や善を自分の内部に発見し認識すべきで、この正義や
善はその本性からして普遍的なもの、と考えた。しかし、この考え方に従えば
ひとは主観の内面世界を重視することになり、現実世界との断絶が生じてくる。
その結果、このような状況が起こった、とヘーゲルは指摘する。

【引用始まり】 ---
いまや多くの市民が国事にかかわる実践生活から身をひき、観念の世界を
生きる場とします。ソクラテスの原理はアテネ国家にとって革命的な原理
としてあらわれたので、というのもアテネ国家の特質は慣習を体制のささ
えとし、思考と現実生活とが一体不可分になっている点にあったからです。
【引用終わり】 ---

【引用始まり】 ---
以後、国家共同体の堕落を招来する高度な原理が、アテネではしだいに力を
得ていきます。精神は自分の満足をもとめて思考に思考をかさねる傾向を強
めていきます。堕落の過程にあってもアテネの精神は堂々としている。
精神が自由を失わず、自分のさまざまな面を純粋に、ありのままに、けれん
味なくしめすからです。アテネ人がその共同体精神を陽気に気軽に埋葬して
ゆくさまは、愛すべき光景であり、悲劇の中にも明朗さがあります。
【引用終わり】 ---

今の日本ではソクラテスが出現する前のソフィストたちの原理がむしろ支配的
であり、共同体の堕落という意味では、そちらのほうが支配的原因ではあるの
だろう。しかし、自分自身を省みたときには、僕の思考はどちらかというと
ソクラテス的」であり、現実との間の断絶は広がっているように感じる。
僕は仕事の世界では分厚いペルソナ(仮面)をかぶっており、内面的な事柄に
興味を持っている様子を外に極力見せないようにはしているが、本当の興味は
実のところ現実よりも観念にあるのだと思う。

これまでも書いたかもしれないが、僕自身が一番興味があるのは、お金でもなく、
地位でもなく「この世界と自分を知ること」なのだ。
それが現実を生きる上で必ずしも「いいこと」だとは思っていないけれど、この
性向は自分ではどうしようもない。ホモセクシュアルの人がどうしても女性に興味
を持てないように、僕はどうしても周囲の多くの人が関心を寄せる現実的な事柄
(金、家、車、地位、贅沢など)にほとんど興味を持てない。これはたぶん死ぬ
まで直らない、一生つきあって行かなくてはならない自分の業だと思っている。

しかしこの「本当に興味のあること」にどっぷりはまってしまうと、僕は間違い
なく現実世界から「堕落」する。だから無理矢理自分を鼓舞し、現実に目を向けて
モチベーションを上げるために意識的にいろいろな工夫をするしかない。
そうでなければ、僕だけではなく周囲にも迷惑がかかるからだ。

しかし、当然、それにも限界がある。
心の底から野球が好きで野球をしている人と本当は野球に興味がないけれども
野球をしている人とでは自ずからパフォーマンスには差がでるはずだ。
ビジネスの世界でも、お金が好きで(あるいは人を使うのが好きで)ビジネスを
している人と、心の底ではどちらにもいまひとつ関心が薄い人間がやっているの
では当然違いが出てくる。僕の場合、お金や地位をすっ飛ばしてその上の「共同
体への社会貢献」というターゲットを仮設し、自分のモチベーションをなんとか
あげようとはしているのだが。

以前の記事で僕はトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」のトーマス
に共感を覚える、と書いた。トーマスの父や祖父のように単純な生命力を持ち、
何の疑いもなく共同体の慣習や時代の空気・精神になじんで分厚いペルソナを
かぶることなく現実だけに興味を持って日々を過ごせたらどんなに楽だろう。
心から僕はそう思う。

いや、そんなことを言っていても始まらない。
ひとはそれぞれに自分の業を背負って生きている。
僕は僕の業とつきあいながら生きていくしかないのだ。
今は共同体との接点を失わず内面に沈潜しないよう目を外に向けて頑張るしか
ないと思っている。

歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

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