風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

複雑さを抱えて生きる

自分自身で書いた過去記事を読み直す、というのは結構照れくさいものではあるが
それでも、僕は時々そういうことをする。そして、そのたびに思うのは「自分は
揺れているなぁ」ということだ。
大きな部分は変わることはないけれども、それでもある時にはぴったりときた考えが
今読むと「少し違う」と感じるものもある。
例えば「仕事」に対するスタンスや向き合い方もそうだろうと思う。

そういう意味では僕自身完全な整合性を持っている人間ではないし、また記事内容
において整合性を持たせようとも実のところ思っていない。
僕は、考え方に曖昧さがなく整合性があって一貫していることこそ優れたことだと
思っていた時期があった。
しかし、今はむしろ逆かもしれない。
ひとは歩き、自らを振り返り、揺れ動き、立ち止まり、そしてまた一歩を踏み出す。
それこそが本質なのだろうと思うのだ。

自分の正義を、自分の生き方を、自分のスタンスを、確信できる不動点とし、他者
や世界を動かない一点から断じて語ること。
それは実に軽薄なことだ。
ぴったりくる森有正の言葉を引用する。

【引用始まり】 ---
人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんな立派に見える
仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽に
すぎないのだ。
(中略)
自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか
知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。
それでも進んでゆかなければならない。
森有正エセー集成「バビロンの流れのほとりにて」より)
【引用終わり】 ---

僕が好きなブログや書物について考えてみると、ある共通する点があることに気づく。
それは書き手がつねに自らに自省の念を持ち、自らに確信を持ちきれず揺れながら
書いている点だ。
書き手が世界の外の固定点から鳥瞰しているような文言が並んでいるテクストは、
余程優れた内容でない限り(残念ながらアマチュアの書き手でそこまでのテクスト
には遭遇したことがない)魅力は感じない。

若い頃、僕は、単純なひとに憧れていた。
自分に自信を持って何の疑いもなく自らの正しさを信じ、シンプルに思う通りの
ことを言い、自信に満ちて世界を解釈するひとたち。
自分もそんな精神的な立場に立てたらいいのに、と思ったこともある。
そして、自らの考え方や生き方やスタンスを確信できない僕自身の精神の複雑さ
を残念に思ったものだった。

今は違う。
生まれなのか育ちなのかわからないけれど、僕はたまたま複雑なこころを持つ運命
だった。複雑なこころを持たない限り、この世界の複雑さは理解できない。
現象学が述べるように、客観的な世界などあるわけがなく、自らの意識にうつる
ものこそ現実なのだ。だから、単純なひとには世界は単純にうつるし、複雑なひと
には世界は複雑にうつる。
ときどき、単純なひとたちの世界観や考え方を聞いていて「ものすごく疲れる」
ことがある。彼らの確信に満ちた瞳を通してそのひとのこころのあり方を想像して、
背筋が寒くなることもある。
もう今の僕は、昔のように、彼らを羨ましいとは思えない。

複雑な精神ゆえに単純のひとたちよりもずっと疲れやすいかもしれない。
僕は書き割りのような世界で西部劇を演じるのは向いていないのだと思う。