風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

ローマ貴族に生まれていたら

毎晩豪勢な宴席に連なり、満腹になったら鳥の羽でのどを刺激して嘔吐してさらに
食べ続ける、というような日々を当たり前と思っていたのだろうか?
あるいは、アフリカの干ばつ地域の農民に生まれていたら、日々の食を確保する
こと、家族の命を守ることがほとんど全ての関心事であっただろうか?
あるいはポルポト時代のカンボジアに生まれていたら、肉親が全部揃っていること
が不思議で誰かは処刑されているのが普通、という状況を受け止めながら極限状態
を生きたのだろうか?

このような想像がよく頭に浮かぶ。
一方で、今のこの日本のこの社会でサラリーマンとして働いている自分。
そして僕や周囲の人々の関心事(金儲け、自分の処遇、プライド、生活、欲しい
もの、手放せないもの、社会の価値観、快楽、娯楽など)。
そういうものが「絶対的であり普遍的である」という錯覚に陥りたくない。

現実から逃避するわけではない。
しかし、僕は日本の都市生活者の多くが信奉している価値観、考え方は恐ろしく
バイアスがかかったゆがんだものであると感じている。
そう、明らかにまっとうではない、と僕の直感が告げるのだ。
その中にどっぷり漬かって生きるのも一つの生き方だろう。
想像力がなければ、思いが至らなければ、思いついても目を閉じることができ
れば、何も問題はないのだし、そのほうが幸せなのかもしれない。
世間を見渡すと、そういう人たちが沢山いる。
熱心で、一生懸命で、快活で善意でいっぱいで、しかし、今の自分が落とし込ま
れている枠そのものに関してはまるで無関心な『想像力のない人達』が。

僕は、そういう人達が苦手だ。
彼らと話せるのは、世間話か仕事話か馬鹿話しかない。
そして、世間話や仕事の話は必要だし悪いものではもちろんないけれども、それ
だけでは『僕にはどうしても足りない』のだ。

自分がまっとうと信じられないことに対して、人はどっぷり漬かるのは難しい。
自分がしていること、生きる方向が「心から納得の出来る何か」に繋がっている
こと。それを自分自身で本当に信じられるように、一歩ずつ生きてゆくこと。
そのために僕は、自分の方向を見定め、自分の心を鍛え、その作業を通して自分
の周りの世界を少しでも変えようとしている。
作業はこれからも続くし、方向性は変わることはないだろう。

僕がブログを書いている理由の一つは、この作業のためだと思う。
自分の思考を整理し、方向付けをして生きる指針を立てるためのツール。
そして「自分はこう生きる」ということを世界に向かって宣言すること。
それが僕にとってこのブログの大きな意味なのです。