風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

氏か?育ちか?論争

人の性格や行動は何によって決まるのだろう?
遺伝?それとも環境?
僕は不勉強にして生物学的にはこれに答が出ているとは知らなかった。

【引用始まり】 ---
100年以上続いたこの論争は、「氏」か「育ち」か論争、として知られているが、
今や完全に無効になった。最近の生物学の発展は、全ての形質(形態も行動も)は
発生システムの過程で、遺伝的要因と環境要因の相互依存的な協同作用により生じる
ことを明らかにしたからだ。
池田清彦著「やがて消えゆく我が身なら」より)
【引用終わり】 ---

そんなの当たり前でしょ?というご意見もあるだろうと思うけれど、確かに僕も、
遺伝で全てが決まるとも、環境で全てが決まるとも思ってはいなかったけれど、
漠然とそう思っているのと、学問的に結論が出たのでは、また話が違う。

例えばこういうことははっきり言えるのではないか。
犯罪者を撲滅するには犯罪者に対して優生学的な処置(遺伝子改変や断種など)
を施せばよい、という解決策はもはやあり得ない。同様に、どんな人間も教育
(環境)次第で性格や行動や能力を改変できる、という楽観主義的教育論も原理
的に成立しない。
これによって、度の過ぎた教育への期待や、犯罪行為をしでかした未成年者の親
に対する無理解なバッシングが多少とも少なくなったらいい、とも思う。

さて、日本の教育では誰も基本的に遺伝子レベルでは大差はない、教育によって
「機会平等」のスタートラインには誰もが立てるはず、という大義名分がまかり
通っているようだ。
なるほど遺伝ですべてが決まるのではないなら、その後の環境で幾分なりとも
「改善」できる可能性があることは認めよう。
ただそれはあくまで「統計的な可能性がある」にすぎない。

つまり「これこれの教育をこれこれのタイミングで受ければ60%の子供には
効果がある」といったようなことだ。しかし、それは任意の100人の子供に
受けさせれば60人には効果があるが40人には効果がない、というようなこと
であって、ある特定の子供がそのどちらに入るかは定かではないということだ。
つまり、金をかけたからといって、我が子を自分たちが望む方向に改善できる
保証はない。もちろん本人のやる気やら根性やらそういうものも効果を左右
するファクターではあるが、それだけで「誰でも努力次第」とはいかない。
だからこそ、子を持つ親は最終的には「残念ながら改善効果が得られなかった
ありのままの我が子」を受け入れる度量と覚悟を持ち続ける必要があると思う。

さて、この池田清彦氏という先生(早稲田大学教授で生物学者です)の考えには
なかなか面白いものがあるのです。
ダーウィニズムを批判し、構造主義生物学を提唱しているとのこと。
印象的な文章を引用しておきます。

【引用始まり】 ---
多くの人々が、競争原理に基づく、自然選択説という進化理論に共感するのは、
産業革命以後に確立された資本主義下の競争原理の下で、毎日あくせく働いている
からに違いない。このように、考えると、社会生物学の原理によって、人間の様々
な行動を解釈すると銘うった、巷に流行る幾多の俗悪本は、倒錯の倒錯とでも言うべき
循環論に陥っていることがわかるだろう。
 生物の様々な変異のうち、ダメな変異は淘汰されて滅び、有利で役に立つ変異は
世界を席捲していく、という自然選択による進化論は、実証によって確立されている
わけではなく、我々自身の競争原理社会の代表選手たる進化生物学者の生活実感に
よって支えられている。
【引用終わり】 ---