風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

最低共通文化

筒井康隆の小説「美藝公」の中で、登場人物たちが”こんな風な悪夢のような
社会(実は現代日本そのままなのだが ^^;)”がもしも存在したら、と想像し
つつ議論するシーンがある。

【引用始まり】 ---
(その社会では)「オーケストラの演奏会などというのも、テレビで見せ
たりするでしょうね」
「やったとしてもポピュラーな曲ばかりをショウ的にやるでしょうね。
本格的な交響楽というのはやはり特殊なもので、一部のインテリのための
藝術とされているだろうから」
「しかしそれだと、オーケストラとはこのようなものだという誤解が広まり
ませんか」
「当然拡まるでしょう。つまり文化というのはすべて面白おかしく、やさ
しく、娯楽的でなければいけないとする社会ですからね」
(中略)
「つまり何もかも、そのう、本来の文化ではなくて、いわば最低共通文化
とでもいうべきものに落ちるわけだな」
おれは思わず手を打った。
「まさにそうだと思うね。そうだ。テレビだけではなく、新聞や雑誌など、
あらゆる情報機構によって、すべての文化が、その最低共通文化にまで
落ちるんだ。
映画や音楽だけじゃない。文学も、科学も、歴史もだ」
(中略)
「その社会では、文学や科学も、消費の対象なんですね。自分たちの手の
届かないところで何かやっているのはけしからん。それがどんなすばらしい
ものなのか、われわれにも平等に分配しろ。わかちあたえよ、わかちあたえ
よ、というわけですね」
「その人達は実際には、テレビでどういうことをやるわけですか」美藝公が
訊ねた。「具体的にはどういうことを喋るんですか」
「そうですね。たとえばある作家がいい小説を書いたとしましょう。文壇で
評判になります。どこがそんなにいいのかと、みんなが知りたがる。ところが
その小説は、小説を読む訓練をしていない人が読んだって、難解でよくわから
ない。そこでその作家をテレビに引っぱり出して解説をさせるわけですが、
ただその小説の内容だけを解説させたってやっぱり難解だろうから三面記事的
にインタビューするわけです。つまり書いた動機は、とかどういう反響があった
か、とか。しまいにはこういう作品を書く人は家庭でどういう生活をしている
のかなどと訊ねる。」
【引用終わり】 ---

筒井康隆がこの小説を書いたのは今から26年前の1980年。
日本の社会はこれをすっかり追い越してしまった。
「名作小説のあらすじダイジェスト」の本が売れている。
「さわりで覚えるクラシックの名曲」のCDもある。
「誰にでもわかる哲学」のたぐいも本屋に行けば並んでいる。

「あらすじ」も「さわり」も「誰にでもわかる」も大変結構。
しかし、それはオリジナルとはまったく違うものだ。
多くの思想書の難解さは意味がないわけではなく、著者が苦悩したあげくどう
しても他に表現のしようがなかったが故の難解さなのだ。思想家によって選び
抜かれた言葉たちによって有機的に構成されたオリジナルの文章からは、無機
的・論理的な内容抽出では絶対伝わらない「何か(思想の”魂”とでもいうべき
もの)」が立ち上がる。
それは名曲だって、小説だって全く同じだと思う。
文化や芸術は安易に人を寄せ付けない部分を持っており、芝居で言われるところ
の「見巧者」のレベルに達しない限り、その素晴らしさが理解できないものも多い。
エンタテイメントの「口当たりの良さ」に浸っているだけでは決して到達できない
世界があるのだ。

毒舌で鳴る筒井康隆のホンモノの文化・芸術というものの本質(峻厳で安易に人
を寄せ付けない高さ)についての識見には頷かざるをえない。

美芸公 (1981年)

美芸公 (1981年)