風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

夏の終わりに

昼間の日射しは相変わらず焼けつくようではあるけれども、朝夕の気温は下がって
すごしやすくなりました。
空を見上げると少しずつ、天の底が高くなってきたように感じます。
物影の伸び方や、空気の透明感も変わってきています。
ランタナシロツメクサだけは頑張っていたけれど、それ以外の草花たちも
残暑の中で息を吹き返し、涼やかさを感じはじめた顔つきをしています。

お盆のあけた晩、眠りに落ちようとしていた僕の足に大きな虫がとまりました。
飛び起きてみると大きな黒いコガネムシです。
おとなしく布団にしがみついて身動きもしません。
そっと紙に取って玄関から逃がしてやりました。
そして、逃がしたあとで「あれはモーリスが姿を変えて会いに来たのだ」と思った
のです。
今年の3月1日に亡くなった可愛がっていたペットのモーリスなのだ、と。

小林秀雄が夕暮れに大きな蛍を見て「(終戦の翌年に死んだ)おっかさんは、
いま蛍になっている、と私はふと思った」という有名な文章がありますが、僕も
全く同じように「あのコガネムシは僕に会いに来たモーリスだったのだ」と確信
したのです。去年から、友人、親族と僕は多くの知己を亡くしているけれど、
何故か僕に会いにきてくれたのはモーリスだ、という確信がどこかからやってきた。

何の理論づけもない、何も証拠もない、何も根拠もないことでも人は簡単に信じる
ことができるのですね。僕は自分が神秘主義者でも宗教的人間でもないと思って
いるけれども、それでもこうやって信じることはあるし、信じることができる。
それはある意味で人間の危うさやいい加減さの反映であるし、それに溺れてしまう
のはとても危険なことではあるけれども、逆に情緒的に人の心を救うこともある
のでしょう。

例えば死後の世界はあるのかないのか、なんてことはいくら科学的、哲学的に検討
しても立証することはできない。
それより肝心なことは、当人がそれを信じることができるかできないか、なのです。
数十年にわたって多くの人達を看取り「死」を考え続けてきたキューブラー・ロス
女史は臨終に当たり「これから銀河をわたってダンスをしにいくのよ」と微笑み
ながら周囲に告げたそうです。
彼女は死後の世界を信じることが「できた」のでしょう。

こうやって一つまた夏が過ぎてゆきます。
特別なことは何一つなかった夏が。

# 僕の奥さんも元気にアフリカから帰ってきました。
  Photo Albumのほうで少しだけ写真を公開しています ^^
宜しければご覧下さい。