風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

日本人の英語

あづみさんの記事を読んで興味を惹かれ読んだ本なのですが、想像以上に面白く
参考になりました ^^ 
僕なりの感想を書きたいと思います。

この本は英作文で「日本人が」気をつけるべき部分について、とても実践的な
アドバイスになっている。僕自身「ああ、なるほど」と思うような部分も多々
あったし、逆に長い間フィーリング的にこうであるはずだろう、と漠然と思って
いたことが著者の説明で理由がわかりすっきりした、というものもある。

そして、改めてこの本を読んで再認識したのは、英語という言語は日本語以上に
論理的に構築されている言語だ、ということだ。
例えば、日本の英語教育ではほとんど説明されないけれど、熟語に使用される
前置詞でもonが使われるかoffが使われるか、あるいはoffが使われるかoutが
使われるかなどについては、著者によればそれぞれ前置詞のフィーリングを
ベースにした意味があるのであって、単に「慣用的にそうなっている」わけ
ではないのだ。
著者は、日本人が間違いやすいの英語の前置詞なり現在完了形なりの「フィー
リング」を判ってもらおう、と大変努力している。
この「フィーリング」こそが実のところ英語の本質であり神髄である、という
ように僕は感じる。

また一方で、このような言葉が著者によって記されている。

【引用始まり】 ---
「はっきりしないと(欧米人の)読者はいらいらする」
「曖昧でなくなるように」
「意味は正しく伝わる」
「的確さを感じさせる魅力」
「読んでも動詞がなかなか出てこなくて(欧米人の読者は)いらいらする」
【引用終わり】 ---

これらの言葉こそ、英語と日本語の本質的な差異を指し示しているように思えて
興味深い。

日本語の特徴の一つに「意味を明確に語らない」こと、「主語(責任主体)を
はっきり言わない」がある。これは著者が「力強さに欠け弱々しい」と問題視
するところの(日本人が書く)英文の特徴でもある。しかしながら僕が思うに、
これは日本社会、文化の反映であり、なかなか超えがたい壁であるように思う。
農耕共同体的言語である日本語は、主語(責任主体)を英語ほど重視する言語で
はなく、意味や論理を正しく伝えることよりも雰囲気や感性を正しく伝えるよう
に作られているのではないか?と思うのだ。だから日本の伝統的社会では「曖昧
でなく的確で意味が正しく伝わるはっきりした表現」を常に志す人は、浮いた
存在になっていたのではないだろうか?
逆に、狩猟民族の言葉である英語では「誰が」「いつ(時制の明確化)」「どれ
だけ(単数・複数)」「どうする(動詞が主語に近い)」というように、危機的
状況、緊急事態で必要情報を凝縮して送るのに優れた仕組みに持った言語である
ように思える。
日本の文化と英語圏の文化の差異がここに現れているように思う。

著者によって、日本人が「受動態の使いすぎ」が指摘されていることも、上記の
ことと相まって非常に興味深い。僕自身は会社に入って商業英語を学んだ時、
「受動態をできるだけ使うように」と指導された記憶がある。
受動態を使うと責任主体を主語にまっすぐ持ってくる必要がなくなるため、ある
場合には非常に「書きやすく」なることもたびたび経験してきた。受動態を使う
ことが日本人に親しく受け入れられたのは、責任主体を明確にせずともよい、と
いう特徴に親和性があったからだとは考えられないだろうか。

以上のように、この本は、優れた語学の本であるにとどまらず、比較文化論的な
視点で読んでも非常に面白く参考になる本だと思った。

日本人の英語 (岩波新書)

日本人の英語 (岩波新書)