風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

村上春樹「女のいない男たち」(4)「シェエラザード」

第四話の「シェエラザード」。
この物語の空気感はとても不思議で、僕はこの物語が今回の短篇集で
一番好きだ。

何らかの理由で「ハウス」に身を隠すことになった「羽原」のもとに
女が週2回のペースでやってくる。彼女はスーパーで食品を買って
持参すると同時に羽原の性交の相手をする。そして性交の後で
彼女はひとつずつ興味深い話をする。
彼女の名前はわからないが、羽原は勝手に「シェエラザード」と名づけた。

シェエラザードの外見は、どのようにひいき目に見ても、「千夜一夜物語
に出てくる美貌の王妃とは似ても似つかなかった。彼女は身体のあちこちに
(まるで隙間をパテで埋めるみたいに)贅肉が付着し始めた地方都市在住
の主婦で、見るところ中年の領域に着実に歩を進めつつあった。
顎がいくぶん厚くなり、目の脇にはくたびれた皺が刻まれていた。


そんなシェエラザードがする話はあるときは突拍子もない。

「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッド
の中で言った。とてもあっさりと、「北極点はずっと北の方にある」と
告げるみたいに。
(中略)
「君はそこで何かを考えていたんだ」
「もちろん」
「やつめうなぎはどんなことを考えるんだろう?」
「やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。
 やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で。
 でもそれを私達の言葉に置き換えることはできない。」

なんという素晴らしい物語だ、と僕は感嘆すると同時に、こんな素敵な
寝物語を聞かせてもらえた羽原を心から羨ましく思う。このような話の他
にもシェエラザードは自分が10代のころ、憧れていた男子生徒の家に
常習的に空き巣に入っていたことを語るが、その物語と彼女の羽原との
性行為は分かちがたく一対になっており、彼女は男子生徒宅に空き巣に
入った女子高生の感情を蘇らせながら羽原と交わる。

もうひとつ彼を戸惑わせたのは、シェエラザードとの性行為と、彼女
の語る物語とが分かちがたく繋がり、一対になっているという事実
だった。どちらかひとつだけを単体として抜き出すことはできなかった。
とくに心を弾かれているのでもない相手との、さほど情熱的とも言えない
肉体関係に、このようなかたちで自分が深く結び付けられている。−
あるいはしっかり縫いつけられている−というのは、羽原がかつて
経験したことのない状況だったし、それは彼に軽い混乱をもたらした。

そして羽原は改めて気づく。
シェエラザードと彼との間にはどんな個人的な取り決めも存在しない。
それは誰かからたまたま与えられた関係であり、その誰かの気分ひとつで
いつ「取り上げられるかもしれない関係」だった。
思えばこれは普通の男女の関係でも同じなのだ。
その「誰か」があるときは(本当に存在する)「誰か」かもしれないし
ある場合は「神様」なのかもしれない。
そして羽原はこうも思うのだ。

しかし羽原にとって何よりつらいのは、性行為そのものよりはむしろ、
彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかも
しれない。女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。
現実の中に組み入れられていながら、それでいて現実を無効化してくれる
特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった。


この羽原の結論に僕は何の異議もなく、全くその通り、と思う。
そして、羽原がすでに感じている痛み(自分は必ずシェエラザードという
美しくもなく何の変哲もない、しかし、絶対に喪いたくない女性)をいずれ
確実に喪うという痛みと恐怖)が僕に痛切に伝わってくる。
どんな関係であれ、遅かれ早かれ、僕たちは女を確実に喪うのだ。

女のいない男たち

女のいない男たち