風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

荻原碌山の彫刻

安曇野一人旅で初日にふらりと入った穂高駅にほど近い碌山美術館
ここには早逝した彫刻家・荻原守衛(碌山)の作品が集められているのだが、
衝撃的だった。
碌山の彫刻に少しついて書いてみたい。

僕は彫刻に感動を覚えたことがあまり多くはない。
ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」には感動したし、西洋美術館外のロダン
の「考える人」やブールデルの「弓をひくヘラクレス」には考えさせられたものの、
他で圧倒的な感銘を受けた、という経験はなかった。
しかし今回、僕は碌山の彫刻のいくつかから圧倒的な何かを感じた。
文字通り、圧倒的な何かを。

碌山の彫刻のどれもに共通しているのは、とにかくどの彫刻も「生きている」という
点である。彫刻そのもののタッチは荒っぽく、完成していないのではないか、と
思われるほど(事実初期の代表作の「坑夫」は未完成という理由で落選している)
なのであるが、描写されている対象の強い生命力と内面(意志であったり感情で
あったり)や性格までダイレクトに伝わってくるのだ。
特に「文覚」「北條虎吉像」「女」は凄い。
「女」などは背中の部分はほとんど仕上げもされず荒々しいままなのに、女の
この姿勢、体の曲線、上を向いた表情、どれをとっても圧倒的だ。

碌山はロダンの「考える人」をパリで見て衝撃を受け彫刻家を目指すことにしたと
いう。この碌山の「考える人」評は実に面白いのでここに転記しておきたい。

【引用始まり】 ---
廻り廻りロダンの作に対するに及び、駭然として驚き慄然として恐れ、
稍久しく神往き魂飛び又私自力の存在を感ずることが出来なかった。
宿に帰って寝食の間にも彼ロダンの作は厳然として私の目前に聳立して
いる。その作は「想う人」というので、ダンテの戯曲中の一人地獄の門
の入り口に立ってその門を眺め以て宇宙人生の真相を想像しつつある人
であって実に想う人である。頭の天辺から足の爪先まで一点の隙間もなく
想に満ちている。もしも世に人間の想というものが有ったならば、必ず
こういうものであると感じた。
【引用終わり】 ---

先に述べたように、碌山の彫刻は必ずしも本物そっくりでもなく、プリミティブさ
さえ感じさせるのに、その対象の本質はずばりと伝わってくる。
面白いのは、碌山美術館の他の展示室に展示されている碌山と同時代の仲間の
彫刻家たちの作品だ。彼らの作品からは碌山の作品のような圧倒的なものが
伝わってこない。ただ一人、高村光太郎の作品を除いては。
高村光太郎の「腕」や「手」は人体のごく一部分の描写にすぎないのだけれど、
これらからは不思議に碌山の彫刻と同じような何かが伝わってくる。
これは僕にとって実に面白い経験だった。

彫刻も絵画も「対象物を本物そっくりに再現するもの」ではないのだ。
重要なのは、その対象物が持つ「何か」を見る人に伝えるということ。
それはちょうど、モネが「印象・日の出」で試みたり、ピカソが「ドラ・マールの
肖像」で行ったことと同じなのだ。
ロダンの「考える人」の人体各部のアンバランスさは何故なのか、随分考えた
けれど、それは「考える人」の「想」を伝えるために必要な、必然的なアンバランス
さだったのだ。
そう考えると、合点が行く。

碌山美術館