風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

瀬戸内の旅(3)−豊島美術館−

地中美術館を後にして、直島の「家プロジェクト」を回った。
これは直島の民家を改装(あるいは新築)して、アート作品を展示しているものだ。
いくつか回った中で、地中美術館で印象的だったタレルの作品が収蔵されている
「南寺」が印象的だった。安藤忠雄設計の家の中に入ると中は真っ暗な漆黒の闇である。
10分ほど座っていると段々に目が慣れてきて部屋の奥にぼんやりとした光のスクリーンが
見えてくる。経って歩いて近づいてみると、それはスクリーンでなく、奥行きのあるへこみで外光が透けているのだった。これもなかなか不思議な体験だった。


家プロジェクトの見学を終えて船で小豆島に渡り、そこのホテルで一泊。
翌日は豊島美術館に向かう。
この美術館は建築は西沢立衛の設計になる非常にユニークなもので、展示されている作品
内藤礼の「母型」ただひとつのみ。いや、この「母型」という作品は建築と一体になっ
ていると言って良い作品である。


まず、美術館に入る前に順路があって、美術館の周りを一周するようになっている。
木々のざわめき、鳥たちのさえずり、木漏れ日、梢越しに見える海、、美しい風景が
僕たちの意識を沈静化させ、美術館に入る前の心の準備をさせてくれるかのようだ。
周りの人達は美術館に入りたくて急ぎ足で歩いていたけれど、僕はこの一周を実に
楽しんだ。もっとゆっくり回っていたかったほどだった。


さて、いよいよ中に入る(靴を脱いで入る)。
中はがらんどうになっていて、二カ所大きな穴が空に向かって開いている。
開口部には細いリボンのループが一カ所付いて風になびいているほかは、ただの穴に
すぎない。当然ながら風も外の音も入ってくる。床には小さな穴がランダムに開いて
いてそこから水のしずくが浸みだしている。浸みだした水滴は微妙な勾配に沿って
ランダムに集まったり、流れを作ったり、一瞬も静止していない。
見学者たちは思い思いに風にたなびくリボンを見たり、床を流れる水の滴を追ったり
黙って開口部から空を見上げたりしている。
実に不思議な空間である。

(↑豊島美術館:写真撮影禁止だったので、ポストカードから複写)


外から眺めるとこのような建物である。
周囲の棚田も実に美しい。


さて、前回書いた「芸術における偶然性」という点について言えば、豊島美術館
偶然性に大きく依存する作品である。開口部から入ってくる日光、風、音、、全ては
「たまたま」「ある瞬間だけ」形作られるものだ。同様に床から浸み出す水滴も
その時の微妙な状況で二度と同じ流れを生み出さない。この作品はそのような偶然性
をコントロールすることを放棄しているし、自然の偶然性が美を生み出すものだと
主張しているように思う。
芸術は個人の個性の表れであったり、自己主張のためのものではなく、世界を
表現しているものである、と考えれば、偶然性をコントロールしようとしていた
芸術は「近代」のものであって「現代」のものではないのかもしれない。
近代の芸術は、偶然性をコントロールすることで永遠の美をそこに封じ込めようと
し、あるものはそれに成功しているが、失われたものも多かったに相違ない。
現代アートは(現代音楽も)そこにチャレンジしているように思える。

         (続く)