風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

村上春樹「女のいない男たち」(5)「木野」

第五話「木野」。
村上自身が「これは僕にとっては仕上げるのがとてもむずかしい小説だった。
何度も何度も細かく書き直した。ほかのものはだいたいすらすらと書けたの
だけれど」と語っている通り、一番の力作であることは確かだ。
僕にとって一番好きな作品か、と問われれば、そうではないが。

木野というのは主人公の男の名前でもあり、彼が根津美術館の裏手の路地奥
に開いた、前庭と立派な柳の木のある小さなバーの名前でもある。
妻が彼の同僚と自宅のベッドで同衾している現場に来合せた木野は、家を出て
仕事を辞め、このバーを開いたのだ。
一切の宣伝もしなかったこのバーに、やがて、灰色の野良猫がやってくるよう
になり、その猫が良い流れを運んでくれたかのように、ぽつりぽつりと客が
やってくるようになる。カミタという坊主頭の不思議な男も常連客になる。
いつもやってくるカップルの客もおり、木野はその女客(男は暴力を振るう
らしい)に誘われる形で、店の二階で非日常的な激しい性交をしたりもする。
そんな中、妻との離婚が正式に成立し、最後に木野は妻と店で会う。

「あなたに謝らなくてはいけない」と妻は言った。
「何について?」
「あなたを傷つけてしまったことについて」と妻は言った。
「傷ついたんでしょう、少しぐらいは?」
「そうだな」と木野は少し間を置いて言った。「僕もやはり人間だから、
 傷つくことは傷つく。少しかたくさんか、程度まではわからないけれど」
「顔を合わせて、そのことをきちんと謝りたかった」
 木野は肯いた。「君は誤ったし、僕はそれを受け入れた。だからこれ以上
 気にしなくていい」


この一件のあと秋になり、まず猫がいなくなり、それから蛇たちが姿を見せ
始める。そしてある日、カミタがやってきて木野がこの店を閉じなくては
ならないこと、それは「多くのものが欠けてしまったから」であること、
そして、木野が自分から進んで間違ったことが出来る人間ではないが、正しく
ないことをしないでいるだけでは足らないこともこの世界にはあり、その空白
を抜け道に利用するものもいることを告げる。
意味がわからず戸惑う木野にカミタは、遠くに行ってできるだけ頻繁に移動し
毎週月曜日と木曜日に必ず絵葉書を出すこと、その絵葉書には決して差出人の
名前もメッセージも書いてはいけないと告げて去る。

カミタの言葉に従った木野は荷物をまとめ旅行に出る。
しかし、ある日、衝動的に絵葉書に差出人の名前とメッセージを書いて伯母
に送ってしまう。
その晩、誰かがホテルのドアをノックする。
強く、執拗に。
そして木野はこのように考える。

木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れて
きたものであることをあらためて悟った。そう、両義的であるというのは結局
のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。
「傷ついたんでしょう、少しぐらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり
 人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。
少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ
と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し
殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から
向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続ける
ことになった。
蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうと
している。


ノックの音は執拗に続き、決して止まらない。
そして木野は自らに向かってこう言う。
「そう、おれは傷ついている。それもとても深く」

この物語は村上春樹らしい寓意と不思議さとシュールさに満ちている。
ねじまき鳥クロニクル」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
海辺のカフカ」の世界のように、静かでありつつも、呪術的な不思議な雰囲気
を醸し出している。
木野は、これらの作品の主人公たちのように、静かで清潔で規則正しく一種完結
した生活を送ってきた。その世界はユートピア的なもので「世界の終り」に描か
れた「高い壁で囲まれた街」のような静謐が支配する世界だ。
しかしながら、このようなシュールな不条理さに巻き込まれた原因(と思われる
こと)が本人によって分析的に語られることが大きく異なっている。
率直に言って、村上作品の魅力のひとつは「問い」は提示されても「答え」は
提示されない点にあると思う僕のような読者からすると(たとえ木野の解釈は
「答え」のひとつにすぎないとわかっていても)少々残念だ。

ともかくその木野の解釈は自分が本物の痛みを感じるべきときに、肝心の感覚
を押し殺してしまった、痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面
から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き
続けることになり、その虚ろな心の空白に「蛇=宇宙の悪意←これは僕の解釈」
が入ってきてしまった、というものだ。

この物語での答えとしてそれが正しいかどうかは別にして、木野の独白は
もっともだ、と僕は思う。
我々は傷つくべき時には、十分に血を流して傷つかなければならない。
それを正面から受けとめることなく、その上にどんな世界を築いたとしても
砂上の楼閣だ。痛みを受け止め血を流すことこそ生きることで、それを回避
した世界は「世界の終わり」の静謐な街で死者として生きることに相違ない。
それは「生きる」と呼べるのか?
あるいはそんな「生」は「生」に値するのか?
この短編はそんなことを僕に問いかけてくる。