風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

負けて勝つ〜戦後を創った男・吉田茂〜

今、NHKでやっている土曜スペシャルドラマの「負けて、勝つ」を見ている。
戦後の宰相・吉田茂を描いたものだ。相当にフィクションも入っているよう
だけれども、面白く引き込まれて見ている。

昨夜の回は印象深かった。
独立(講和)を目指す中、朝鮮戦争が起こりGHQの圧力で警察予備隊が創設されるという
現代史でも非常にクリティカルな部分を扱っているので、その歴史としての面白さは
あったが、それ以上に僕が興味を惹かれたのは、長男の英文学者・吉田健一吉田茂
の喧嘩の場面。

久しぶりに息子と再会した吉田茂は、健一から自分の政策を占領軍の言いなりで
憲法を違反してまで再軍備を進めているとなじられ、非難されてブチ切れて
こう言う。「貴様に政治の何がわかる!これが現実なんだ!具体的に何かできる
ことがあるのなら言ってみろ!」

ああ、判る、と思う。僕は吉田茂の言いたいことが、痛いほどわかる。
僕もよく部下達に対してそう言いたくなることがあるからだ(実際は言わない)。
彼らも飲み会や集会で「会社もああすればいいのに」とか「こうすればいいのに」
と言う。それは大抵のところ狭い局面だけを見てのコメントで大局を見ればそうは
判断できないことは明白なのだが、大局を見れない(情報的に)あるいは大局を
見ようとしない(能力的に)が故に異なった感想を持つことになる。
この場面を見て僕は、ああ『職業としての政治』だ、と思った。
以前書いた「職業としての政治」からもう一度引用しておこう。
マックス・ヴェーバーの感動的な一節である。

ただ次のことだけははっきり言える。
もし今この興奮の時代に −諸君はこの興奮を「不毛」な興奮でない
と信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、
少なくとも真の情熱とは限らない− 突然、心情倫理家が輩出して、
「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私に
ではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さ
を根絶するであろう。」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、
私ははっきり申し上げる。 −まずもって私はこの心情倫理の背後に
あるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私の
印象はといえば、まず相手の十中八、九までは、自分の負っている責任
を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ、
と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ
感動しない。

これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って
行動する、成熟した人間―老若を問わない―がある地点まで来て、
「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッター
の言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で
魂をゆり動かす情景である。なぜなら、精神的に死んでいないかぎり、
われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうる
からである。
そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、
むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり出す
のである。

とはいえ反面、責任ある立場の人間は、常に自問自答しなくてはならない。
「自分の取る選択肢は、安易であるが故に選んだものではないのか?
 本当に全てを考えつくした上で全体を最適化するために最善なのか?」と。