風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

加藤周一「私にとっての20世紀」

加藤周一の「私にとっての20世紀」を読了した。
いくつか大変印象に残った部分があり、僕自身の思考のテーマとも被るので抜き書き
しておく。

20世紀の思想家としてのサルトルが伝統的な哲学の最後の人だと言っても、
彼の出した問題は、ずっと続くと思います。むしろそれは、20世紀が終わ
っても、次の世紀が、もしかしたら一番関心を持つ問題かもしれません。
それは、さきほどのキルケゴールの引いた線とヘーゲルの引いた線の
交わるところに人間存在があるということです。どういう関係なのかと
いうことは大変難しい。彼が解いたわけではないけれども、彼が提出した
問題は全体化です。二つの座標軸です。
だから、どうしても実存主義は必要なのです。
(184ページ)

このテーマは以前の記事「公ホリック」で別の加藤の著作から引用したものと
同じ内容であるがやはり印象深い。
次は辛辣かつ、極めて的確な小林秀雄批判。

小林さんは一種の体験主義それから勘です。
たとえば、焼物とか絵の見方でもジーッと見ていて、そのときの勘で
「これはよろしい」とか「これはニセモノだ」とか決める。
それはそれで面白い。実際にどうであったかということに、彼はそれ
ほど関心はないと思う。別の言葉でいうと、たいへん主観的な人です。
生きることの最高の瞬間というのは、彼がそういう体験をしているとき
なのです。彼の心の中の問題です。
心の外にある世界がどういう秩序を持っているか、どういうことがそこ
で起こっているかということに対する関心は、それほど強くなかったの
ではないか。
  (中略)
そういう(歴史は個人がどういう体験をしていようと、それを超えて
進展するという)理解は小林さんにはない。だから戦争のときに
どっちでもいいということになってしまう。日中戦争が中国侵略戦争
あるかないかということに彼は興味がない。興味があるのは、たとえば
自分を捨てて国に尽くすとか、その勇気とか決断力です。
決断してどこに行くか、決断がいったい何を社会に、歴史に及ぼすか
ということにはあまり関心がない。決断そのものを評価する。
それは一種の美学だと思うけれど、小林さんの限界です。
(224〜226ページ)

次の一節は、吉本隆明が読み解いた親鸞の往相還相論に通じるもの。

たとえば、孔子の牛のはなしを考えてみましょう。
孔子は重い荷物に苦しんでいる一頭の牛を見て、かわいそうに思って
助けようと言った。すると弟子は中国にはたくさんの牛が荷物を背負って
苦しんでいるのだから、一頭だけ助けたってしようがないのではないか
という。孔子は、しかしこの牛は私の前を通っているから哀れに思って
助けるのだと答える。
それは第一歩です。
第一歩というのは、人生における価値を考えるためには、すでに出来上
がった、社会的約束事として通用しているものから、まず自らを解放
することです。
  (中略)
たくさん苦しんでいるのだから一頭ぐらい助けてもしようがないという
考えには、苦しんでいる牛全部を解放しなければならないということが
前提にある。なぜ牛が苦しんでいるかへの答えにはなっていない。
牛が苦しんでいるのは耐えがたいから牛を解放しようと思う、どうして
そう思うかというと、それは目の前で苦しんでいるのを見るからです。
だから出発点に帰る。
やはり一頭の牛を助けることが先決なのです。
(245ページ)

もっと加藤周一を読まなくては。