風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

最後の親鸞

以前の記事で紹介した吉本隆明の語った以下の言葉が頭から離れない。


しかし親鸞は「人間には往(い)きと還(かえ)りがある」と言っています。
「往き」の時には、道ばたに病気や貧乏で困っている人がいても、自分の
なすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて
帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも、すべてを包括して処理して
生きるべきだと。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。


この考え方にはあいまいさがありません。かわいそうだから助ける、あれは
違うから助けない、といったことではなく「還り」は全部、助ける。
しきりがはっきりしているのが親鸞の考え方です。(談)


もっと親鸞の思想を知りたいという思い断ちがたく、とうとう吉本隆明の「最後の親鸞
を買い、今日読了した。この本は吉本隆明らしい晦渋さが比較的少なく読みやすく、
かつ、面白い本だった。しかしながら、結論から言うと吉本はこの本の中では、親鸞
往相回向還相回向についての上記の解読をストレートに語ってはいない。
しかし大変深く、面白い議論を展開している。
たとえばここではラディカリストとしての親鸞の姿が解読される。


越後の在俗生活は、親鸞に「僧」であるという思い上がりが
実は「俗」と通底している所以を識らせた。そうだとすれば、
「僧」として「俗」を易行道によって救い上げようとする
のは、自己矛盾であるに過ぎない。「衆生」にたいする「教化」、
「救済」、「同化」といったやくざな概念は徹底的に放棄しなければ
ならない。なぜならばこういう概念は、じぶんの観念の上昇過程から
しか生まれてこないからだ。
観念の上昇過程は、それ自体なんら知的でも思想的でもない。
ただ知識が欲望する「自然」過程にすぎないから、ほんとうは
「他者」の根源にかかわることができない。
往相、方便の世界である。
「他者」とのかかわりで「教化」、「救済」、「同化」のような
概念を放棄して、なお且つ「他者」そのものではありえない存在
の仕方を根拠づけるものは、ただ「非僧」がそのまま「俗」ではなく
「非俗」そのものであるという道以外はありえない。
ここではじめて親鸞は、法然の思想から離脱したのである。


また吉本隆明は「情況」という言葉を使って親鸞の思想を読み解こうとする。


親鸞の言葉の裏側にあるものは、わたしたちのような不信の徒から
みれば、もう一つあるように思える。宗教や天職の修行は、じぶんの
修行とはまあったく関わりがない場所からやってきた「現在」の情況
から、根底的に転倒させられることがある。
そのときは、何はともあれ情況の方がじぶんの修行より重たいと感じ
られているのだ。


これは転向論で論じられるような情況での事柄ではないか?
さあ、信仰を捨てよ。捨てねばお前やお前の家族の命はないぞ、と脅された時に
遠藤周作の「沈黙」に出てくるような情況で)信仰者はどうするのか、と
いったケースもまたそうだろう。僕の読み解きでは、親鸞は情況を優先して
良いのだ、と言っていると理解する。
それは『契機』(業縁)なのだから、と。


まだまだ僕の理解は薄く、そして、浅い。
吉本が語った往相と還相について、さらにつっこんだことを識りたい。
この事柄の理解は、この実存と世界を両立させる理解を成立させるには不可避で
あると考えるからだ。
もっと本を読んでみよう。

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)