風の歌が聞こえますか

僕に聞こえてくる風の歌を綴ります。

職業としての政治

たった実質100ページの本なのに、読みかけでなかなか進まずやっと読了。
読了してみると、実に感動的かつ素晴らしい本だった。
マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を
読んだときも感動したが、この本もまた素晴らしい。
これは、マックス・ヴェーバーが1919年に学生団体を前に行った公開講演の
記録なのだが、まったく古さを感じさせない内容である。
備忘のために印象に残った部分を抜き書きする。


【引用始まり】 ---
しかし「官僚」というものは、デマゴークとして強い影響力を持つ
個性的な指導者には、わりと簡単についてゆくものである。
これは官僚の物質的・精神的利害が、指導者の望む党勢力の拡大と
密接に結びついているからであるが、それとは別に、指導者のために
働くということ自体が、精神的な意味でかなり大きな満足感を彼らに
与えるからである。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
ところでこのような職業(政治)はどんな内的な喜びを与えることが
できるか。またこのような職業に身を捧げる人間には、どのような
個人的前提条件が必要とされるであろうか。
 さて、それが与えるものの第一は権力感情である。形式的にはたい
した地位にない職業政治家でも、自分はいま他人を動かしているのだ、
彼らのたいする権力にあずかっているのだという意識、とりわけ、
歴史的な重大事件の神経繊維の一本をこの手で握っているのだという
感情によって、日常生活の枠を越えてしまったような一種昂揚した気分
になれるものである。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
まず我々が明記しなければならないのは、倫理的に方向付けられたすべて
の行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ち
うるということ、すなわち「心情倫理的」に方向付けられている場合と、
責任倫理的」に方向付けられている場合がある、ということである。
(中略)
サンディカリストは、純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、
その責任は行為者にでなく、世間の方に、他人の愚かさや−こういう人間
を創った神の意志のほうにあると考える。責任倫理家はこれに反して、
人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れる。つまり彼には、フィヒテ
がいみじくも語ったように、人間の善性と完全性を前提してかかる権利は
なく、自分の行為が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁する
ことはできないと考える。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を
持った者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善
のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは人間の行為にとって
決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうと
する者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の
下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時
も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に
身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。
(中略)
自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法
に求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力
によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモン
は、愛の神、いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも、いつ解決
不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような、そんな内的な
緊張関係の中で生きているのである。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
自分の都市や「祖国」は今日ではもはや万人にとって一義的な価値では
ないかもしれない。しかし諸君がこれに代えて「社会主義の未来」とか
「国際平和」を口にされる場合でも、いま申したのと同じような問題が
出てくる。なぜなら、暴力的手段を用い、責任倫理という道を通って
おこなわれる政治行為、その行為によって追求されるすべてのものは
「魂の救済」を危うくするからである。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
修練によって生の現実を直視する目を持つこと。
生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと。
これだけは何としても欠かせない条件である。

 たしかに政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるもの
では断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。
しかし心情倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶ
べきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ
次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に −諸君はこの
興奮を「不毛」な興奮でないと信じておられるようだが、いずれにして
も興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない− 突然、
心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。
こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼ら
の愚かさ、卑俗さを根絶するであろう。」という合い言葉をわがもの顔に
振り回す場合、私ははっきり申し上げる。 −まずもって私はこの心情倫理
の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私
の印象はといえば、まず相手の十中八、九までは、自分の負っている責任
を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ、
と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ
感動しない。


これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って
行動する、成熟した人間―老若を問わない―がある地点まで来て、
「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッター
の言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で
魂をゆり動かす情景である。なぜなら、精神的に死んでいないかぎり、
われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるから
である。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、
むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり出す
のである。
【引用終わり】 ---


【引用始まり】 ---
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が
−自分の立場から見て−どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて
挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と
言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
【引用終わり】 ---


マックス・ヴェーバーは政治というサブジェクトについて語っている
けれど、僕はもちろん、権力を持つ者の社会的行動一般についてという視点で読んだ。
恐ろしくも鋭い指摘であると思う。

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)